校舎東半部に接した北側の空地で,調査面積は僅かに28m2である.ここは表土を全面除去した結果,現表上下約20cm前後のところにローム面が存在し,黒色土の落込みとヤマトシジミを主体とした良好な貝層が認められた.調査区の北端と西側の貝層内には,給水管・配水管などが埋設されており,ここでも遺構の一部が破壊を受けている.
遺構は住居址であり2軒が重複し,住居址間に新旧関係が認められる.
旧住居址(第三号)内には貝層がほとんどみられず,遺物は土器の破片と石鏃などである.新住居址(第四号)内には,床面上に貝層が30~40cmの厚さで堆積し,その廃棄の状態を観察できた.貝層に混入して出土した遺物は,土器の破片が最も多く,魚骨や獣骨片に加えて数例の骨角器・同未成品なども存在する.
出土土器は,A地点と同じく,いわゆる胎土に繊維を含有した前期前半の仲間である.
なお,昭和41年の頃,防音鉄筋校舎の付帯工事(浄化槽)に関係した鴨川清一氏(水戸市平戸町)によると,この地点にも小貝塚が発見されたという.今回の調査事実と鴨川氏の記憶を総合すると,台地上には数か所に小貝塚が存在したことになり,これらの貝塚は住居址内に廃棄されたものであろう.また,貝塚を伴わない住居址もあった筈で,この場所が大串貝塚人の居住地域を形成していたと考えられる.