第六章 まとめ

 奈良時代の昔から注目され『常陸国風土記』那賀郡の条に登場する大串貝塚は,昭和11年(1936)に田沢金吾・大場磐雄・池上啓介・宮崎 糺らによって,初めての学術調査が実施された.学生のころ発掘者のひとり大場磐雄博士から,たわむれに「あの貝塚は貧乏貝塚だよ.掘っても貝ばかりでなにも出てこない.」といわれたことを思い出す.まさにそのとおりであって,国指定史跡のC地点の斜面貝層は,土器破片や魚骨などを採集するだけでも大変苦労した経験がある.土器を除く生活用具,たとえば骨角器類の発見などは夢物語であった.
 ところが,昭和60年(1985)になると,川崎純徳氏らを中心としたB1地点の発掘によって,保存状態の非常に良好な貝層とシカの骨角に加工した刺突具と釣針(未成品も含む)が出土した.この調査で発見した骨角器類は,従来私たちにとって手にすることがなかった新資料で,質・量ともにすぐれた内容である.
 今回の常澄中学校改築に伴う調査においては,台地上に住居址4軒が発見され,そのうちの1軒(第四号住居址)に貝層が存在し,土器をはじめ石器,貝器,釣針,刺突具類,同未成品などの人工遺物,動物遺存体などが多量に出土し,前回を大きく上回る成果を収める幸運に恵まれたのである.
 最初の学術調査が行われてから,実に60年を経過してようやく住居址が発見されるに至った.住居址の発見は,この台地上の空間が大串貝塚人たちの居住域に選ばれていたことを意味する.その規模解明は不可能になったとはいえ,貝塚の大きさからみて,かなりの集落を形成していた事実が想定できるかと思う.
 住居址から出土した土器をみると,前期前半の花積下層式・関山式期に比定しうる資料で,豊富な形式的内容を有するものである.土器の中には両者の特徴的文様が,胴部の上下に同居した移行的色彩の強い資料もみられて興味深い.また,本地域の土器のなかに,前期にかぎった事象ではないけれども,東北系の網目状文土器も客体的に含まれている.土器破片は4住居址の出土数を合わせると極めて多い.その分類と説明には多くの紙数が必要となる.
 石器は,自然礫の一端に打欠痕,平坦面や側面に敲打痕を残す礫器,敲石,石斧(欠損品)などの種類が若干出土している.この他に狩猟具の石鏃6点が存在する.これまでに30点前後の表採石鏃があるので,本台地での狩猟活動は活発に行われていたように窺われる.
 貝器は,比較的大型のハマグリを素材としたもので,腹縁に細かい打欠を加え刃部を作出している.前回の調査資料(昭和60年)についで多く発見された遺物である.石器とはまた別の用途に機能する便利な利器であろう.
 骨角器は,鹿角製の大型釣針と刺突具類,未成品などが出土した.釣針の4~5点という数に加えて,製作工程を示す未成品までも発見でき,縄文時代の骨角器,とくに釣針研究にとって,その資料的価値は極めて大きいものがある.内湾沿岸性のクロダイ・スズキの遺存骨の多さからみると,こうした釣針は私たちの予想を越えた数量が製作されていたものと考えてよい.また,刺突具類は,釣針にくらべると素材の骨角部位は多くなり,その加工法も一層工程的に簡略であるから,さらに多くの量が作られたものであろう.
 哺乳類の遺存骨は,シカとイノシシを主体とし,他にアナグマがあり,骨片の量はいずれも少なかった.とくにシカの場合は,大串貝塚人にとって重要な食料資源であるばかりでなく,またその骨角が各種骨角製品を作出する素材として欠くことのできないものであった.
 一方,魚貝類の採捕活動のうち,貝類については,第四号住居址の貝層の項で,すでに述べたように,貝層ブロック分析の結果を総合すると,ヤマトシジミが大略92%,マガキが5%という出現率を示している.貝塚の周辺にヤマトシジミが多量に繁殖できる汽水域の砂泥が形成されていたということになる.この環境は現地形からみても容易に推察できるのである.そして,河口付近の岩礁域は,内湾沿岸匠のクロダイ・スズキを主とした漁場が展開し,そこで大串貝塚人は釣漁法や刺突漁法による漁撈活動を行っていたのである.こうした漁法は今回出土した骨角器(釣針・ヤス状刺突具)とクロダイの遺存骨の多さから考えて,河口域でかなり定着した漁法であったと思われるのである.
 なお,本貝塚出土の脊椎動物遺存体と骨角製品については,金子氏のご高配により,別編としてその詳細な所見を収録することができた.ここに改めて謝意を表するものである.

 参考文献
田沢金吾・大場磐雄・池上啓介・宮崎 糺「大串貝塚」史前学雑誌9-2 昭和12年5月(1937)
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下村克彦「新田野段階花積下層式土器と二ツ木式土器について」奈和19 昭和56年5月(1981)
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井上義安『大串貝塚』常澄村教育委員会 平成3年3月(1991)