第一章 北屋敷古墳の位置と現状

 茨城県のほぼ中央部を東に蛇行して鹿島灘に流入する那珂川(一級河川)の右岸には,水戸市下市(しもいち)方面から発達した台地があり,涸沼川との合流地点に向って張りだしている.この台地は,一般に水戸東南台地と呼び,先端部は塩崎町に達するが,この間には幾多の支谷が台地を刻み,先人たちの生活を跡づける貝塚,住居址,古墳その他の遺跡が散在している.塩崎の地は,あらためて説明するまでもなく,奈良時代の和銅6年(713),官名によって編さんされた『常陸国風土記』で著名な大串貝塚群が所在する場所である.ここから西方約800mの地点に移行すると,そこに小さな支谷が台地に進入する.この支谷を挾んで東南側が北屋敷(きたのやしき)2),北側台地が向山と呼ぶ小字名となる.
 北屋敷の地は,平成3年4月1日から12月31日まで,一般国道六号東水戸道路改良工事に伴う,埋蔵文化財記録保存のために,茨城県教育財団が発掘作業を行った.調査面積は道路建設部分の約2,100m2である.この区域内から古墳時代,奈良・平安時代の遺構があきらかにされた.とりわけ古墳時代に関しては,前~中期の住居址が3軒出土したのに加え,封土を消滅したものの周溝を残す円墳1基が発見され,凝灰岩の切り石を積み重ねた横穴式石室内から直刀3口,小刀3点,鉄鏃約30点などの副葬品が出土した.報告書においては第一号古墳と記載している3)
 今回,調査の対象となった古墳(第二号古墳)は,教育財団の調査した第一号古墳より東に約100m離れた標高15m前後の山林中に存在した.古墳発見の経緯は,東水戸道路改良工事とは別に,水戸市建設課が周辺の道路環境を整備することになり,あらたに市道常澄6-0008号線の建設を計画し,予定地内の杉林(樹齢36~50年)を伐採した後に確認された.古墳の墳丘と周囲には,第二次大戦時に旧陸軍の防空壕が数か所に掘られ,土砂の移動によって,墳丘の東南側が著しく変形している.このために古墳の発見が遅れたのはやむをえないことであろう.市教育委員会が調査した結果,確実に埴輪を伴う古墳であることが判明した.
 私たちも現地踏査でこの事実を再確認し,南側の畑地で後期縄文土器,土師器などの小破片を採集し,墳丘外の平坦な山林内に住居址や土壙などが埋没している可能性を指摘しておいた.
1)常澄村教育委員会『大串貝塚』常澄村文化財調査報告書第4集 平成3年3月
2)教育財団の報告書では「きたやしき」となっているが,「きたのやしき」が正しい地名の呼称である.下記文献参照.
 水戸市教育委員会『常澄村史』地誌編 平成6年3月
3)茨城県教育財団『一般国道6号東水戸道路改良工事地内埋蔵文化財調査報告書I』茨城県教育財団文化財調査報告第79集 平成5年3月

第一図 遺跡付近地形図(○北屋敷古墳)