大串古墳群について,佐藤次男氏は『常澄村史』の中で次のように説明しており,すでに消滅した古墳の所在を確認しておくためにも,参考とすべき事項が多いので全文を引用することにしよう.
稲荷神社付近,字山海の台地縁辺の古墳群で,現在一基を残すのみであるが,昭和五十四年までは四基の古墳があった.またこの古墳群は,折居神社辺の大串貝塚の台地縁辺まで分布した一連の古墳群であった.江戸時代からその存在が知られており,「事蹟雑纂」には,「先年大串村ニテ塚ヲヒラキシニ大骨ト観音像ノ出シ事アリ,骨ハ多クアラス髄(すね)ノ骨ナドアリシ,其長二尺四寸アリ,推量シ見レハ一丈ヲコヘタル人ト見へ不思議ノ事也,予モユキテ見シ事ニテクシカナル事也,観音ノ像ハ立像ニテ長二尺許也,ソノ時ノ説ニカノダイダ法師ガ骨ナルベシト云シトゾ」といった興味のある記述がある.
大正元年十二月十四日,稲荷神社の西南約三三メートルのところからも古墳が発掘されている.『東茨城郡誌』によれば,「此日発掘せられたるものは古剣三口,金環二個,矢の根若干,緒付円鏡一個なり,石槨は周囲を砂利にて固め,次に木炭を詰め,長七尺,幅四尺,中に石棺あり,岩の厚一尺,附属品は後方にありたり,本県属託栗田勤氏出張取調の結果略一千三百年前のものなるべしと,これは格別の塚もなき所を掘りたるなり,発掘したる長剣は身の長二尺六寸,幅一寸五分鍔直径二寸,鍔もと二寸六分,金環は径八分,紐付円鏡径三寸六分なり」とある.(引用文のあきらかな誤植4か所は訂正または削除した)
昭和五十四年にも稲荷神社と常澄中学校の中間台地上にあった円墳三基が調査されている.そのうちの一基は,墳形の中央部基盤ローム層に主軸を東西にした長さ一・六五メートル,幅一メートルの細長の土壙で,一部に白色粘土塊や少量の小砂利が認められた.木棺直葬の可能性がある.
以上の三事例のうち,大正元年12月14日云々『東茨城郡誌』所載の稲荷神社境内出土遺物は,翌2年10月1日に,当時の帝室博物館(現東京国立博物館)が,茨城県より引継ぎ収蔵している.昭和55年4月にこの資料は,『東京国立博物館図版目録・古墳遺物篇』(関東I)の中で公表された.『東茨城郡誌』の不備を補い,副葬品の種類を把握するために解説を再録する.
第二図 『東茨城郡誌』の大串古墳出土品図
1 五獣鏡 1
青銅製.約1/3欠失.面径10.2.2.6×2.4.表裏共に繊維痕多し.
2 銅環 2
青銅製.緑銹甚.径2.6×2.4.表面一部剥離.
3 直刀 3
鉄製.腐蝕甚.鍔径9.2×7.7.鞘木質痕あり.他に鍔1(径5.7×4.5.鞘木質痕あり.円頭大刀破片(柄頭長7.7,最大径4.3,鍔径6.9×6.0)あり.
4 鉄鏃 一括
鉄製.現存長6.4,茎部に桜皮巻遺存.
5 木製壺鎧と兵庫鎖 一括
木製.破片となる.壺鎧上部3片あり.幅1.7.兵庫鎖3連と鉸具.
6 鞍 一対分
鉄製.鉄の方形座金具遺存.長7.3.
7 轡破片 一括
鉄製.素環鏡板付轡の破片.
[備考]他に土器片,玉石出土.(埋蔵物録による)
以上に引用した内容から,本古墳の埋葬施設と副葬品の種類については大略理解できる.その場所は「稲荷神社の西南約三三メートル」付近と限定されているが,「格別の塚もなき所を掘りたる」ということで,容易には突き止めることができない.しかし,地山のロームを掘り込んで構築した主体部が残っていれば,所在の確認はそれほどむずかしくはないだろう.
さて,大串古墳群は,すでに消滅した前記の2古墳に加えて,昭和54年ごろにも調査後消滅した古墳(3基)があるので,①長福寺古墳の現状確認,②常澄中学校から大串稲荷神社周辺の現存,消滅古墳の所在確認,ならびに調査の経緯など,現時点で確認しえた内容を記録しておきたい.現地踏査は平成6年10月13・14日の両日,井上義安と整理作業従事者が実施した.
第三図 大串古墳群分布図(●現存する古墳 ○消滅した古墳)
①の塩崎1178・1180番地に所在する2基の円墳は,長福寺南側の竹林中に現存する.第1号墳は,推定直径17m,高さ3m前後,西方に約10m離れて第2号墳が存在する.本古墳は推定直径18m,高さ2.5m前後である.両古墳ともに円墳であるが,墳丘の南側から中央部にかけて発掘(あるいは盗掘かも知れない)した跡が明瞭に残っている.おそらく両古墳の主体部は破壊されているものと考えてよい.埴輪片は発見できなかった.
②については,稲荷神社の境内,社殿の裏山(東南側)に小円墳(推定直径15m,高さ1.5m)が1基現存する.埴輪はみられない.この古墳は地番2162からみて「大串2号墳」に該当するように思われる(茨城県教育委員会『茨城県遺跡地図』昭和52年3月,常澄村史編さん委員会『常澄打史』平成元年8月).墳丘のほぼ中央付近には発掘したような跡がある.
また,社殿の西側,手水舎と記念碑の並ぶ裏手にも,長さ約25m,高さ約2~3mの墳丘が存在し,石室の構築材らしい砂岩が数個散在している.形状は,前方後円墳と思われるが,前方部その他に土砂を削りとった跡がみられる.埴輪は存在していない.
一方,消滅した古墳については,前記の「昭和五十四年にも稲荷神社と常澄中学校の中間台地上にあった円墳三基が調査されている」という説明からみて,そのうちの1基は『大串貝塚周辺におけるふれあいのまちづくり』事業地内の第三調査区(昭和63年11月~平成元年1月調査)で発掘した周溝(方形に巡る幅3.0~3.5m,深さ約80cm)を伴う方墳(墳丘消滅)が場所的にも該当すると思う(常澄村教育委員会『大串遺跡』平成元年10月).他の2基はこの近くに存在していたが,現在はほとんど跡形も残っていない.当時古墳の調査に立ちあったのは,村文化財保護審議委員の諸氏であったらしい(大串貝塚ふれあい公園飛田邦夫所長の教示による).
現時点において確認した大串古墳群の内容は以上のとおりである.いずれにしても,江戸時代,大正時代に発掘消滅した古墳を加えると5~6基の古墳が失われていることになる.以上をまとめてみると,本古墳群は,今回確認した前方後円墳を中心に円墳や方墳あわせて10基程度で構成され,詳細な年代は不明であるけれども,おそらく6~7世紀代に築造されたものであろう.
「乳飲み児を抱く埴輪」発見の顛末
この女性埴輪は,旧勝田市の大平(おおだいら)古墳群(黄金塚)から出土したもので,『茨城県史料』考古資料編古墳時代(昭和49年12月)の口絵に原色写真で紹介され,虎塚古墳の壁画(昭和48年発見)とともにあまりにも有名である.
昨年11月1日,ひたちなか市が誕生し,埋蔵文化財センターにおいて,第1回の文化財保護審議会(平成7年1月28日)が開催された.終了後に展示室を見学する機会があり,約30年に振りにこの埴輪と再会した.
埴輪の発見は昭和31年秋であった.当時の勝田市は,各地で北海道の炭壙を離職した人たちの失業対策土木工事が行われていた.太平の周辺では,夏頃から現在の農協西側をホテル・ニュー長寿荘方面に入る道路の建設工事が始まり,ここの大型前方後円墳を人力で破壊していた.
金上方面の遺跡巡回の折,この現場に遭遇した訳である.墳丘にのぼってみると,埴輪片が散乱していたので,かたわらのプレバブで休憩中の作業員に,人物埴輪出土の有無を訪ねたところ,全然発見していないという.破片の部位から確実に人物埴輪が出ていると判断して,雑談すること約1時間,実はということになって,床下の土の中から人物2体と円筒をとりだした.そのひとつがこの女性埴輪で,まさかこんなすばらしい埴輪を隠しているとは思わなかった.
埴輪発見の経緯は,早速帰宅して父に話し,当時埋蔵文化財に理解のあった市福祉事務所の安 洋太朗氏,市長の安 義男氏(故人・安 雄三市議会議員の尊父)などと協力して,保存のための交渉を行ったが,かれらも素人ながら珍しい埴輪なので手離したくなかったのであろう.一向に渡す気配をみせなかった.金銭で解決することは容易であるが,今後に悪例を残すので,あらためて清酒3本を持参してお願いすることにした.当時にしてみれば3升というのは貴重であったらしく,私たちの申し入れに応じてくれた.思えば39年前に清酒3升と交換した埴輪は市文化財に指定され,埋文センターの展示ケースに収まっている.(平成7年2月)
井上義・井上義安「女性埴輪の新資料」古代 28 昭和33年5月
太平遺跡群調査団『茨城県大平古墳』昭和61年3月