このたびの市道常澄6-0008号線の改良工事に伴って発見された北屋敷第二号古墳は,昨年の第一次調査に続いて,第二次の墳形確認調査が終了した.この間における調査の内容については,本書に収録した第一次と第二次調査報告の中で記述してきたとおりである.
本古墳の考古学的解明は,この調査の成果をもって終った訳ではなく,いくつかの問題点が指摘でき,今後の研究課題として残されたといえる.
まず,第一に注目しなければならないことは,古墳の研究にとり最も基本的な墳形が,円形なのか前方後円形を呈するのか,周溝調査からは明確にできず,未確認のまま次回の調査に委ねられた.はからずも短時日で第二次調査の機会が到来したので,この問題が解明できるという期待を抱いて発掘に臨んだ.しかし,地権者は森林愛護の念が固く,立木の伐採を一切禁じられ,思うところに調査区が設定できず,残念ながらこの解明は今後に残された課題となってしまった.
埋葬施設と副葬品は,被葬者の生前における社会的地位を推察する資料の一つである.現時点においては,第五調査区内にローム面を若干掘りくぼめ,側壁と底面に粘土を貼付した遺構(上半部は存在しない)が発見された.埋葬に関係ある施設と思われるけれども,副葬品は全く検出されていない.はたしてこの遺構が本古墳に伴う埋葬施設と考えるべきか,あるいは古墳築成以前の施設であるのか,速断できない面も残っている.
平成3年5月には,本古墳の西方約100mの北屋敷地内で,道路の改良工事が行われ,このとき墳丘が削平された古墳(第1号墳)の発掘調査を実施した.
調査の記録によると,形状は円形を呈し,規模は東西13.5m,南北14.0mを測り,幅1.5~2.9m,深さ37~69cmの周溝が全周する.埋葬施設は,中央寄りの南側地山を掘り込んで構築した横穴式石室(長さ約3.9m,幅約1.8m,高さ約70cm)が存在し,内部底面から副葬品(直刀3,刀子3,鉄鏃約30)が出土している.
両古墳を比較すると,墳丘の規模の点では,ほぼ同程度であったようにうかがわれるけれども,第1号古墳には凝灰岩の切石で構築した横穴式石室があり,本古墳の現墳丘の西南半部地山面には,弥生時代後期の遺構,古墳時代前期の住居址や防空壕などが発見されただけで,いわゆる主体部(石室)は存在しなかった.前述した良好な円筒,形象埴輪を多出した古墳としては,第五調査区発見の上端状遺構を主体部とした場合,両古墳間における埋葬施設の格差があまりに大きすぎることも事実である.
発掘開始前の墳頂部付近には,三枚の扁平な砂岩があり,そのうちの大型のもの(長径約1.3m×短径約0.8m)の上に祠が祀られていた.この板石は,石室の蓋石または側石にすこぶる近似していたので,地主宮部久男氏にその出所を尋ねたところ,祖父の代から受け継いだものであり,搬入石材であったかは全くわからないという.しかし,これ以外には,石室を構築したと思われるような石材は見当たらなかった.かりにこの石材が石室の一部であったとしても,石室床面に敷いた玉石ともども別のところに,一括搬出利用しているかも知れないということは到底考えられない.第一・二次の調査を通じて石室に結びつくような玉石類の集積址は確認できなかった.
ちなみに一例を挙げると,田谷(たや)町七ツ洞池の台地上に所在する富士山古墳(全長18.1mの前方後円墳)も埴輪(円筒,人物?,家など)を伴っていたが,主体部は後円部の墳頂下1.5mの付近に存在し,長さ2.0m,幅80cm,深さ30cmの規模をもつ粘土槨であり,副葬品が皆無という事例も報告されている2).こうしたことを考慮するならば,古墳の主体部は,かならずしも規模の大きい石室でなくともよい訳になる.
さて,市内には埴輪を出土する古墳として,愛宕町の愛宕山(あたごやま)古墳(前方後円墳)をはじめ前記の富士山古墳(前方後円墳)その他が知られているが,墳丘に樹立した埴輪の配列状態から葬送儀礼をうかがえる例は僅少である.本古墳の場合,東南側一帯が封土の削平と攪乱,それに加えて第五調査区内にほとんど埴輪片がみられないことから,埴輪の配列は墳丘をめぐらせずに,主として北西の片側墳麓に樹立した可能性が強いように思われる.
個々の埴輪,とくに人物埴輪については,顔面の表情から同一工人の作と考えてよいと思うが,そうした埴輪の供給先をどこの窯跡(茨城町小幡北山・旧勝田市馬渡・常陸太田市元太田山窯など)に求めるのか,今後の胎土分析を含めて解明しなければならない.また彩色した形象埴輪をみると,赤彩を施したものは皆無であり,すべて鈍色の顔料が塗布されている.この種の埴輪は,那珂川北岸の旧勝田市から東海村,日立市にかけての久慈川下流域を中心に分布することが知られていた3).今回は那珂川を越えた大串の地に出土した点で注目される.
本古墳においては,直接被葬者の政治・経済・軍事上の地位を推察しうる副葬品の発見はないが,那珂川下流域右岸に発達した広大にして肥沃な土地の生産力〈経済的背景〉を考慮すると,大串の地を統治した有力な首長層の奥津城と考えてよいであろう.出土埴輪から想定される古墳の築造年代は,おおむね6世紀の後半に比定できると思われる.
本報告は,発掘調査の性質上,出土品の整理から執筆までに,あまり時間的余裕がなく,問題点を深く検討できなかった.他日を期したいと思う.
1)茨城県教育財団『一般国道6号東水戸道路改良工事地内埋蔵文化財調査報告書1』 平成5年3月
2)水戸市史編さん委員会『水戸市史』上巻 昭和38年10月
茨城県史編さん原始古代史部会『茨城県史料』考古資料編古墳時代 昭和49年2月
3)稲村 繁「『紺』色考」『風土記の考古学』1常陸国風土記の巻 平成6年5月