水戸藩は,寛永2年(1625)より武家と町人の居住地を明確に分ける屋敷割をするなど,城下町の整備を始めている。
とくに,台地上の町人を下町(下市)地区に開いた田町に移し,のちの本町通りを設けた。
この地域は,那珂川と桜川によって形成された低地であったため,地下水はかんたんに入手できたが,水質は悪くて飲料水には適さなかった。そこで,寛永4年(1627)に吉田村の溜池より用水路を作り,田町に給水した。水量は少なく,町全体での利用は不可能であり,利用者たちの衛生知識からくる取り扱い方にも問題があって,水質は悪かった。
水戸藩主2代目の光圀は,これらの水事情を知って,寛文2年(1662)に清水道の調査を望月恒隆(もちづきつねたか)に命じた。彼に協力した平賀保秀(ひらがやすひで)は,城下町に近くて湧水が多く,水質も良い台地にきざまれた谷の一つにあった笠原村の銀河寺不動堂に祈願し,ここを水源の地と選んで水道を創設することにした。
これに当時,久慈郡町屋村(常陸太田市町屋町)に居住していた永田茂衛門(ながたもえもん)が参画し,提灯の明かりを千波湖に映して土地の高低を測り,水道管の水平面を割り出すなどしたという。
水道管は,当時としてはめずらしい地下を通した暗渠方式であった。材料は,本線はセメント状になったやわらかくて細工のしやすい神崎寺下一帯の凝灰岩の岩樋,支線は中心をくり貫いた木樋,各引込み線は節を貫いた竹樋で,それぞれ継ぎ目は粘土で固められた。
水道は,吉田村の台地はしより千波湖南岸を東に進み,吉田神社の下から藤柄町に出て,備前(伊奈)堀を渡って七軒町・本町通りに入る。そして,かつての陸前浜街道を幹線にして通十町目・新町を通り細谷で余水を那珂川に落とす,全長1万751メートルの水道であった。
この水道は,その水源地の名称をもとに笠原水道と呼ばれ,日本で18番目の水道として寛文3年(1663)7月に完成した。これに動員された人は,延2万5,014人だったという。この工事の完成によって,その後水戸の町は城下町として繁栄が約束された。