明治になると,藩の援助を失ったために笠原水道を利用していた者たちで,水利土功会を結成し,その維持と管理を始めている。しかし,270年来の施設で老朽化も進み,水道の溜井戸439個のうち127個が衛生上の問題もあって改築を必要とされていた。また,家屋数や利用人口は増加したが湧水量の減少や漏水のために流水量が減少傾向にあったため,水源や樋の改良の必要も考えられるようになっていた。
下市の有志は,このために下市通俗衛生会や水道講話会を開いて,水の問題に関する市民教育を始めた。これを受けて市当局も,明治30年に水道区会条例を設定し,水道事業に参画することになった。
水道区会は,明治36年11月に,水道条例にもとづく近代的水道の布設を,県費補助を前提とした6万9,000円で設置することを議決した。給水区域を下市全地区とし,給水人口を8,000人,1日最大給水量を1,000立方メートル,水源は笠原不動山ろくに第1・第2,元吉田に第3の施設を設け,それを2か所の配水池に集め,鋳鉄管で自然流下方式により配水するものである。
ところが日露戦争の開戦や設計上の問題もあって遅れ,実際の工事は明治42年7月着手で,翌年7月に9万3,000余円で完成した。その後,この水道は何回かの改良工事もあり,昭和2年には1万人に給水できる施設となった。