悲願の全市水道

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 大正3年,6代目市長となった川田久喜は,最初の市内視察で都市に不可欠の水道が完備していないことを知り,積極的に下市水道の拡張に努めた。そのころは水戸でも火災が多く発生しており,防火の面からも水道の設置が急務となっていたこともあって,この政策は人びとに歓迎された。

 大正9年には水道調査費が計上され,具体的に水源問題の研究が始まる。これまでのように地下水の利用は,水量の安定供給に不安があり,危険すぎると中止になった。のちに臨時水道部技師長として全市水道事業を進めることになる岡田夘之助に,河川水利用での問題点を調査させた。岡田は,大正11年に渡里村の那珂川沿岸に井戸を掘り河川水を浸透させて,ろ過して利用するのが最良の方法と報告している。これが,以後の水戸市水道の根本方針となった。

 昭和元年,上市に井戸は1,823本あった。そのうち日常生活に問題なく使用できるのは1,118本で,全体の61.3パーセントしかなかった。同4年には2,289本中で飲料水として適切とされたものは28.8パーセントと減少している。同じ統計によると下市ではこれが25.9パーセントとなっている。水戸市全体では,煮沸やろ過など加工してようやく飲料水となる井戸が68.2パーセントで,水は大きな社会問題となっていた。

 これら水問題の市民的関心の高まりのなかで,下市に住んでいて早くから水道問題で活躍していた鈴木文次郎が8代目市長となり,全市水道事業を強力に推進した。昭和3年6月の市議会に,那珂川中州に集水管を埋設して伏流水を汲み上げ,川岸で浄水にし,台地上のタンクにポンプで送水し,そこから自然の落差により市内8万人に給水する計画を提案して議決される。工事費は250万円と見込まれた。

 その後,経済界の不況によって工事費が減額され,昭和5年7月に工事の認可と190万円の起債が許可され,全市水道の本格的準備に入る。このときの市民の気持は,水でさほどの苦労もしていない現在の私どもには想像もできないものがある。11月に工事が始まり,翌々年の昭和7年4月に1年6か月で試験通水,同7月に通水で工事は完了し,水戸市街地全体を給水区域とした近代(創設とも呼ぶ)水道が完成した。

 市民は,消防団による放水試験を見てその威力に驚き,自宅のじゃ口からつぎつぎと流れ出るきれいに澄んだ水を見て,うれしさのあまりに止めることを忘れたと伝えられる。そのため水道関係者は,市民に水道の使用方法を理解させることが最初の仕事だったという。

 施設としては,渡里村の芦山に浄水場,渡里に上市給水用の高区配水塔,下市給水用には北三ノ丸に低区配水塔が作られ,それぞれ鋳鉄管で各町に配水された。その工事精算額は149万9,541円で,そのうち国庫補助金が36万5,856円あった。