第二次世界大戦後,水戸の市街も大きく変化し,給水人口も増加して昭和26年には給水量が計画量を4,500立方メートルも超過した。そこで漏水の防止と節水運動を展開し,市民の協力によって給水の維持に努めたが,絶対量の不足から配水管の末端や高い所では水圧が低下し自然断水が多くなってしまった。
これらの対策として,昭和27年から35年まで9か年計画で,給水人口を8万5,000人とする第一期の拡張事業が始まった。芦山浄水場の拡張,渡里町の枝内に本市で始めて表流水を取り入れる取水塔と高速沈でん・急速ろ過法による浄水場を新設するのが主なものであった。
その後も首都圏整備法による市街地の開発などによって,人口が急激に増加した。とくに水道未給水区域での住民の増加が多く,昭和37年から41年までの5か年計画で,11万人給水を目標に,枝内浄水場の拡充と配水管の整備を中心とした第二期拡張事業があった。
都市化にともなう市街地の拡大は,その後も給水を必要とする区域を拡大したため,昭和41年より50年まで10か年計画で,20万人給水を目標に開江町に浄水場を新設するなどの第三期拡張事業を実施した。これが完成したことにより,昭和49年から54年にかけ21万5,000人給水と給水体制の安定を目標に,開江浄水場の拡充・千波町と田谷町にそれぞれ配水タンクを築造し,配水管網の整備を主とした第四期拡張事業を施工した。
このように,昭和初期まで水戸市民が味わった水問題の苦しみを,2度とくり返させないようにと,水道事業の関係者は努めている。市民も,現在の時点ではなく,明日の生活がより良いものになるように,水が不足することなく,また余分となって無駄にすることのないように努めたい。長い将来を見通した水の安定供給の道を,全市民がともに考えて求めてゆきたい。