水戸の丘陵地帯は自然にめぐまれ,古くから人びとが住んでいた。1万年以上も前のことである。まだ土器は使用されず,素朴な打製石器をつかって動物をとったり,植物を採集して生活していた。それらの遺跡は市内藤井町の十万原などに残っている。
縄文時代には土器が使用され,石器も鋭いものが利用されるようになった。住居は竪穴式とよばれるものであり,当時の生活のなごりである貝塚も発見されている。
弥生時代に入り農耕が始まると,定住生活が行われるようになった。水戸地方では,飯富・酒門(さかど)・河和田などにその遺跡が見られる。
6世紀ごろ,全長198メートルという愛宕(あたご)山古墳(市内愛宕町)がつくられた。このあたりでは大きな前方後円墳で,那珂国造(なかのくにのみやつこ)の墓であろうと推定されている。
「常陸国風土記」によれば,このころ常陸地方は6つの国に分けられ,水戸地方は那珂川流域を中心に仲国とよばれていた。
大和朝廷は地方豪族のなかで,とくに強大な豪族を県主(あがたぬし)(小さな部族国家の首長)や国造(くにのみやつこ)(地方官)に任命し,地方を支配組織に組み入れていった。おそらく,この愛宕山古墳に葬られた人もこれに関係をもったと思われる。
7世紀中期になると中央では大化の改新が行われ,8世紀初めには大宝律令が完成して,天皇による強力な中央集権国家が形成された。710年には奈良に平城京が造営され,今まで6つの国に分かれていたこの地方は常陸国となり,それまでの国は郡とされた。その下に里が置かれた。また条里制・班田収授制・租税制などが実施され,国家の支配権が確立した。
律令体制下の常陸国の役所は府中(石岡市)におかれ,水戸地方は常陸国の那賀郡に含まれた。また「万葉集」には,愛宕町滝坂の途中(異説あり)にある曝井(さらしい)をよんだ歌や那賀郡からはるばる北九州へ防人(さきもり)にいった人びとの歌が残っている。
8世紀末に都は奈良から平安京に遷都され,律令政治の再編の試みがくりかえし行われていたが,貴族や寺社によって荘園が形成され始め,律令制の基盤である土地公有制は崩れだした。水戸地方では那賀郡より吉田神社を中心として吉田郡が分離し,のちには吉田荘となって荘園が成立している。
また荘園の増大とともに領主たちは荘民を武装させるようになり,とくに関東地方はこうして早くから武士が興った。
政治のうえでも貴族間の抗争は激しさの一途をたどり,朝廷と姻戚関係を結んだ藤原氏は,政治権力を独占することになる。中央政治の乱れは,地方にも及び,国司となって地方に下った貴族のうち,源氏や平氏が力をふるうようになった。
常陸国においては,桓武天皇の曽孫高望(たかもち)王が平氏を名のり上総介(かずさのすけ)となって常陸をはじめ上総や下総に広大な私有地を開き,これらを子の国香(くにか)・良将(よしまさ)らに与えて平氏一族が大きな力をもつようになった。将門(まさかど)は父良将の死後,遺領をめぐって伯叔父の国香・良兼(よしかね)らと争って国香を殺し,常陸・下野(しもつけ)・上野(こうづけ)の国府を次々と支配していった。これが世にいう「将門の乱」(10世紀)である。
朝廷はこの乱を平定するために,国香の子平貞盛(さだもり)に将門討伐を命じた。貞盛は下野の豪族藤原秀郷(ひでさと)と結び,ついに将門を滅ぼした。将門の乱は一方で地方豪族の武力の強大さを示し,武士の成長に道を開き,水戸地方にもこの影響が及ぶことになった。吉田神社は平安初期より名神大社になり,常陸三の宮として多くの崇敬をあつめ,社領を形成していた。吉田神社の神宮寺として薬王院も造営され,水戸地方に大きな勢力を形成した。これも平安後期からは著しい武士の進出によって社領が侵略され,次第に力を弱めてゆくことになる。