11世紀には房総地方に勢力をもつ平忠常(ただつね)の反乱を源頼信が鎮圧し,前九年の役には源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)が奥州を平定して,坂東武士の間にも源氏の支配が強化された。
平氏の分流常陸大掾(だいじょう)氏はいちはやく源氏と密接な関係を結び,勢力を拡大してゆく。大掾氏は平貞盛の父国香にはじまり,貞盛の子維幹(これもと)の時代に常陸に基礎をつくることになる。
源氏は関東地方の武士団を武力の基盤として地位を築きあげた。一時,平氏に中央権力を奪われたが,源頼朝が鎌倉に挙兵すると関東武士が立ちあがり,平氏政権を打倒した。
大掾氏は頼朝に近づき,常陸国の大掾職(地方官の役職)と家領を継承した。その一族である馬場大掾氏も水戸を中心とする那珂・吉田両郡を支配した。この一族は水戸の形成という点からみると非常に重要である。
2度にわたる元寇の来襲後,恩賞の不満が武士の間にひろがって,反幕的気運が高まった。後醍醐(ごだいご)天皇は天皇親政をめざし,全国の武士に反幕行動の命令を下した。
このとき倒幕にたちあがった足利尊氏(たかうじ)・新田義貞についで,常陸地方の武士たちも鎌倉攻めに加わった。しかし,建武の新政は長くはつづかず,常陸地方でも南朝方(後醍醐天皇側)と北朝方(足利尊氏側)の争いがくりひろげられることになる。
当然,大掾氏もこの争乱にまきこまれた。常陸地方の三大豪族の中で,筑波郡に勢力をもつ小田氏が南朝方に,太田地方に力をもつ佐竹氏が北朝に組みした。大掾氏は遅れて北朝方に服属したため,水戸地方は足利方の勢力下に入った。
南朝方は東北地方の支配を維持するため,常陸を根拠地にして勢力の拡大をはかり,楠木正成(まさしげ)一族の正家が延元元年(1336)瓜連城(那珂郡瓜連町)に那珂氏とたてこもった。これに対し佐竹氏など北朝の連合軍は瓜連城を攻め落として,常陸地方を北朝の支配下としている。この時の常陸での対戦は,全国的にみても大変な激戦であった。
南北朝の統一後もいたるところで争乱は続き,水戸地方は交通の要所として,重要な補給路であったため,常に抗争の中心にあった。
一方,足利氏と関係の深い佐竹氏は守護として太田(常陸太田市)を中心に大きな勢力を樹立した。大掾氏は佐竹氏におびやかされ,次第に衰退してゆく。応永23年(1416),上杉氏憲(うじのり)(禅秀)の乱では,大掾氏は氏憲につき,のちに佐竹氏家臣の江戸通房(みちふさ)に,水戸の拠点を奪われた。応永33年(1426)より水戸は江戸氏の支配するところとなり,大掾氏は府中だけの地方的勢力となってしまった。
平安末期より室町末期まで水戸地方を支配し,水戸に館をもうけた馬場大掾氏ではあったが,当時水戸はあくまで支城的な存在でしかなかった。水戸に本格的城が築かれ,政治的本拠となるのは次の時代,江戸氏の時代であった。