室町末期から戦後時代の動乱の時代をへて,織田信長の全国統一まで約160年間水戸を支配したのは江戸氏である。水戸という地名もこの時代から使用されるようになった(別名「江戸」とも呼ばれた)。
江戸氏は“瓜連城の戦い”に敗れた那珂氏の流れをくむ名族である。那珂川東岸の下江戸(那珂町)を拠点として江戸氏を名乗った。その後,桜川流域の河和田(市内河和田町)に移り,中妻三十三郷の地域に支配体制を固め,江戸通房の時に水戸の地を馬場大掾氏より奪った。そして那珂・茨城両郡に君臨することになる。
その子通雅(みちまさ)の時代には水戸に江戸氏一族・家臣の屋敷・宿所がつくられた。また商人・職人が住み始め,城下町が形づくられて,水戸が市町としての歴史をあゆみだした時代でもある。水戸城は内城と宿城からなり,内城は居館のあった内郭であり,台地の東端に位置(現水戸一高)し,また宿城は内城の外郭であり,家中の諸士と町方・商人が居住した。
通雅の子通泰の死後,佐竹氏の一族の内紛に介入し,天文16年から同19年(1547~1550)にわたって,江戸氏と佐竹氏の合戦が行われた。その後,ふたたび佐竹氏に従うようになるが,鹿島・行方両方面に進出する戦国大名的存在でもあった。
そのため天正3年(1575)には,信長によって江戸氏は従五位下・常陸介に任ぜられるなど実力が認められた。
豊臣秀吉が全国統一へむけて動きだしたときに,佐竹氏は早くから石田三成を通じて秀吉に従い,その力を背景に東北地方の強豪伊達政宗の南下を防ぎ,小田原に一大勢力をもつ北条氏政(うじまさ)の北関東への拡大を阻止しようとしていた。天正18年(1590),秀吉の小田原北条討伐の命令を受けた佐竹義宜(よしのぶ)はすぐさま参陣したが,北条氏政と盟約を結んでいた江戸氏や大掾氏は動かなかった。これが決定的に運命を左右することになる。佐竹氏は大名として公認され,江戸氏や大掾氏は佐竹の家臣として独立は否定された。