水戸が現在のように発展したのは,江戸時代徳川御三家の府城となったからである。
家康は幕藩体制を維持するために,水戸が東北をおさえる重要な一大拠点として考え,11男の頼房(よりふさ)に25万石を与えた。
水戸家は参勤交代のない定府制であり,藩主は江戸にあって国元の城代・家老・奉行らを指図した。
寛永2年(1625)頼房は水戸城の大修築と城下町の大改造に着手した。知行高に応じて家臣達に普請を命じ,村々から村高に応じて農民を動員して大工事を行った。佐竹氏時代の本丸はせまかったので,二の丸を本丸とし,二の丸殿館・三の丸・土塁や堀などを整備している。
城下町には上町と商工業者居住の田町がつくられた。田町は元来低湿地帯であり武熊の東台を切り崩し埋立て造成された。ここがのちに発展して下町(現在の下市)とよばれるようになる。
江戸街道(別名水戸街道,江戸~水戸間)と岩城街道(水戸~岩城平・陸奥相馬方面)の接点として,那珂川の舟渡・河岸(かし)に接しているので,交通の重要な地であり,商業の発展をうながした。寺は台地北端の寺町・桜町に集められていたが,町人支配のためもあって,田町にもつくられた。上町も拡大され,武家屋敷と町屋敷がつくられたが,田町の町屋敷中心に対して,上町は武家屋敷が中心であった。
2代目藩主の光圀も城下町の発展には関心が強かった。上町・下町の区画整理を行っている。なお,下町はもともと低湿地帯を埋め立てた土地であり,飲用水には不適当で住民は困っていた。光圀はこの問題を解決するために笠原から下町に水道を引くことを計画し,寛文3年(1663),ついに完成させた。