元祿時代には商業の発展により,水戸でも町人文化が繁栄した。
城下町商業の発展にともない定期市よりも店舗商業が主な営業形態となり,それを補うものとして特定の町で六斎市(ろくさいいち)(月に6回ひらかれる定期市)が開かれた。また城下町に境を接する郷分地の発展が目立つ。郷分地は城下町に集まってくる農民を相手にして城下町の入口で商いを行った。こうして水戸の商業圏は広まり,城下の商人達は富をえることになった。
だが,商業の発達は貨幣経済の進展を促すことになり,これは次第に農村にまで及んだ。こうして農村は重大で深刻な影響をうけて,3代藩主綱條(つなえだ)以後,荒廃地がふえ,疲弊してゆく。
藩は城下町と村々に8か条にわたる倹約令をだしたり,領内の富農や城下町の町人に御用金の献上を命じた。
宝永の改革では松波勘十郎を登用して,経費の節約・冗費整理・営業規制・年貢増徴策・新川普請など行ったが,とくに農民の犠牲を強いる結果となって,一揆が起こって改革は失敗した。
続く4代宗堯(むねたか)の享保の新政,5代宗翰(むねもと)の寛延・宝暦の改革では,財政緊縮・風俗の刷新・農政の改革・産業開発などの政策が行われたが成功しなかった。
明和・安永以来凶作は続き,農村人口は減少し,6代藩主治保(はるもり)は民政刷新令をだしたが効果はなかった。
寛政4年(1792)には半知借上(かりあげ)を行い,藩は財政難を切りひらこうとした。半知借上とは藩士の俸祿を半分借り上げるというものである。実際は給料の半分支給になった。
城下町の商業は化政期に入って衰退期に入り,藩は会所とよばれる経済的目的のために設立した事務所をおいて,商業を保護した。