町と村

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 斉昭(なりあき)が9代藩主となったのは文政12年(1829)である。斉昭の擁立には門閥重臣達と藤田東湖(とうこ)・会沢正志斎(せいしさい)ら改革派との抗争があった。斉昭を擁立した改革派は側近として,藩主の強い指導のもとに天保の改革を実行することになる。この改革は積極的に行われ,全国に重大な影響を与えるものであった。

 斉昭は農村振興の対策として倹約の励行と人口増加策をうちだした。とくに人口問題では間引・堕胎を厳重に禁じ,妊婦の届出を厳しくした。飢饉対策としては,非常用に常平倉や稗倉(ひえぐら)を増設し,また検地を実施した。

 検地は寛永以来200年間も行われず,不公平な税制になっており,緊急を要する問題であったが,反対する勢力があって実行に移すことが困難であった。斉昭は天保11年から13年にかけて検地を断行した。この結果,石高は約30万石で,検地前より12万石の減少となってしまったが,藩の収入減は1千両にとどまり,公平な税制を確立することができた。このことは多くの農民を改革派の味方につけることにも成功し,天保の改革遂行にとって見逃せない点である。

 改革期の水戸城下町は,元祿・正徳頃の繁栄期には約1万3,000人いた町方人口が天明には8,000人を割り,ついに7,000人台となった。武家方の人口は2万人程度であり,両方あわせて約3万人弱がこの水戸の上町・下町に住んでいた。

 このような城下町の情勢に対し,町民生活の規制を従来になく厳しくして,町民の生活の保護・救済のため,金穀の給与・貸与を行い,領国経済の中心としての機能を回復させようとした。在郷町や村方商人を城下にあつめ,城下商人を保護し,さらに国産物をひき立てて,江戸や他国に売り出す方策をとった。とくに天保13年(1842),郷中増言売(せりうり)の禁止,郷中直仕入の禁止,城下町2里四方の営業禁止をうちだし,城下町の保護に力を入れたが,農村や郷町の町人には反対があった。

 水戸藩は定府制であったが,斉昭はしばしば水戸に滞在して藩政を指導し,多くの家臣を水戸に帰した。経費節減という意味もあった。このため,従来の武家屋敷では足りなくなり,外堀の外に新たに屋敷割をした(現在の新荘あたり)。商人達も馬口労町あたりに住むようになって城下町は拡大した。

 天保12年(1841)には家臣の子弟のための文武修業場として弘道館が創設され,のちに医学館も新設された。敷地の広さは江戸時代藩校中最大であったという。また郷校は農村有志のための庶民の教育機関であり,敬業館(那珂湊市),益習館(常陸太田市),暇修館(日立市)などが建てられた。

 日本三大公園の一つにあげられている偕楽園は,天保13年(1842)に弘道館の設立と並行してつくられた。その梅園は有名であるが単に休養施設というばかりではなく,梅実が飢饉対策と軍用のためという側面があった。