4 水戸の市制

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 明治2年,版籍奉還により,藩主昭武(あきたけ)が知藩事に任じられた。明治4年(1871)7月に廃藩置県が行われ,水戸藩は水戸県となり,同年11月の県統合により,茨城県となる。山岡高歩(たかゆき)(鉄舟)が初代県令(参事)に任命された。ほぼ現在の茨城県となるのは明治8年(1875)である。初代知事には中山信安がなり,県庁は旧水戸城から明治5年(1872)弘道館に移り,のちに現在の場所に移された。以後水戸が県庁所在地となり,県の行政の中心地となる。

 一方,この間に政府の強い指導に対する反発もあり,旧水戸藩士によって水戸城が焼失する事件も起こった。

 教育制度は明治5年に「学制」がしかれ6年に最初の共立小学校が柵町(さくまち)に創立された。上市・下市の子弟,満6歳以上のものが入学した。また同年,竹隈女学校もつくられた。7年(1874)には拡充学校,のちの師範学校が現在の水戸駅付近に建てられ,13年(1880)には茨城県中学校(のちの水戸一高)が現在の水戸地方気象台の場所に設立された。明治6年(1873)には郡や町村にも改革が加えられ,大区小区制が実施された。11年(1878)には郡区町村編成法により,水戸は東茨城郡水戸上市・同下市となる。明治22年(1889)には市制・町村制がしかれ,本県では初めて水戸が市となった。市域は旧水戸城下の上市(うわいち)と下市(しもいち),常磐村・吉田村・浜田村・細谷村の一部であった。


市域内の江戸時代の村

 その後も水戸市への編入がつづき,市域は拡大していった。


水戸市への編入

 明治12年(1879),府県会規則により,第1回の県議会が水戸で開かれた。このころから自由民権運動が本県でも高まり,水戸では明治12年から13年にかけて,共民公会・同倫社・北辰社などの政社がつくられ,国会開設の要求は次第に強まった。

 交通機関は鉄道の普及によって大きく変わった。明治22年(1889)に水戸と小山間67キロメートル開通(水戸線)。30年(1897)には水戸と平間に常磐線が敷設され,翌年全線が開通した。水郡線は昭和9年(1934)に全線が開通された。このように水戸は鉄道においても茨城県の中心地として重要な役割をはたすことになる。

 通信業では明治5年(1872)に水戸郵便局が開設され,明治40年(1907)茨城電気会社が設立されて初めて水戸に電灯がついた。

 また新聞は明治5年に「茨城新報」が水戸市泉町の新報義社から創刊され,明治24年(1891)いはらき新聞社が設立されて,本格的に日刊紙が発行されるようになった。

 銀行では水戸に明治11年(1878),第百四国立銀行が設立された。

 このように明治時代以来の水戸は,政治・経済・教育・文化・交通など各方面にわたり本県の中心的な役割をはたしてきた。

 太平洋戦争で,昭和20年8月2日水戸は空襲をうけ,壊滅的状況になった。米軍のB29が約200機飛来し,焼夷弾を投下した。市内は炎につつまれ,商店街や官庁街も焼失した。被災者は当時の人口の80パーセントにあたる4万人に達したという。


水戸空襲戦災地域図

 戦後も厳しい状況はつづいたが,みごとによみがえり,現在も本県の中心的都市として発展している。