2 水にかかわる民俗信仰

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 水にかかわる民俗事象は水戸にも多く残っている。それは,人間の水に対する感謝と,その反面の畏怖の感情をあわせてもつ信仰という形で現われるものが多い。原始の時代から人間は,自らが作り出すことのできない自然物に対して崇拝の念をいだいていた。太陽や月・岩・巨木などと同様に,水も当然その対象になっていったと考えられる。

 一般生活に何げなく入り込んでいる水に対する信仰について,具体的に少し考えてみよう。「おまえは橋の下から拾ってきた子どもだ」「川を流れてきたのを拾って育ててやったのがおまえだ」という話を聞いたことがないだろうか。この種の話は,あまり人に自慢できるものではないので,自分だけしか知らないと思っている人が多いようだが,実は日本全国で多くの人が経験している話なのである。どうしてこの様な話が日本中に広まっているのか,その根拠はわからないが,どうも川や海などの水と人間の魂や生命の誕生とが関連するものと考えられていたことを示唆しているようだ。

 若い女の人が川岸に立っていて,水のしぶきが体にかかるとその女性が妊娠するという言い伝えを信じている地方もある。また,桃太郎の話も川を流れてきた桃を拾い上げることから物語が始まる。水天宮さまが安産の神様の最も有名なひとつとなっていることとも,関連があるのではないだろうか。

 さらに,水は人間の誕生ばかりでなく,死の場面でも関係してくる。代表的なものが精霊流しである。これはお盆に家に迎えたご先祖を送り流す行事である。つまり,死後の世界は海や川の彼方にあるという観念を基盤にした民俗行事といえる。このように,人間の魂は水と関連して生まれ,水に導かれて他界するという考え方もあったことになる。

 水は人間の生命維持にとって欠くべからざる物質であるとともに,精神的な面においても人間の生命と水とは深いかかわりをもっていたと思える。正月三が日の朝の<若水くみ>の行事は水戸でもよく行われる。年頭の最初の水を<若水>とよび,主婦ではなく家長によって汲まれることが多い。新しい水を新しい桶に汲み,その水で正月の食事の用意をし,1年の健康を祈りながら食べる。<若水>には新しい1年を元気に過ごす力を与えてくれる作用があると考えられた点もある。

 さらに,水は人間の体につく不都合なケガレ(汚れ・穢れ)を取り除いてくれる力をも持っていると考えられていた。現在でも,体の汚れは風呂(ふろ)で落すが,水は物理的な汚れだけでなく精神的なケガレまで落してくれると信じられている。

 葬式に参列して帰宅した際は,塩を体にふりかけてもらう。自分の家にいやな人が来た場合にも,「塩をまけ!」などという。この塩は本来海水の代用物なのである。海の水に浸って体についたケガレを落すことが本来の方法なのだが,常に海の水が身近にあるとは限らず,便宜的な方法として塩が使われたのである。

 川の水にも同じ様な力があると考えられたようだ。「水は三尺流れれば清まる」とよく言われる。特に川の水については,<流れ灌頂>という民俗が水戸周辺にも残っている。<流れ灌頂>とは,産婦が不幸にして亡くなった場合の供養の方法であり,産婦は血のケガレで亡くなったのだから,成仏してもらうために戒名を書いた赤い布を小川の岸に張り,それに水をかけて血のケガレを消してやることを目的としている。このように水には精神的な洗浄力もあると考えられていたのである。

 また,水には偉大な力があるために,通常はケガレたものは近づきがたいといった畏怖の念をも同時に持たれていたようだ。月経中の女性やこの地方で言うオビアキ前の産婦は海や川の水に入ることを禁じる風習も,同時に多くの地方で残っている。

 このように考えてくると,水が人間に精神的にも大きな影響力をもっていたことがわかる。その水に対する信仰は大きく2種類に分けられる。ひとつは,水が人間に何かを与えてくれるという信仰。もうひとつは,人間にとって不都合なものを水が流してくれるという信仰。一見プラスとマイナスで矛盾している様だが,人間の生活においてはプラスもマイナスも表裏一体であり,どちらも人間にとっては必要なものであった。