1 わき水の利用

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 水道の発達していない時代は,天然の水をうまく利用して生活しなければならない。原始・古代の時代から人間は水の得やすい所を集落の場としている。

 水戸付近一帯の台地は関東ローム層の下に砂層・礫層があり,雨水はここを透して自然にセメント化した凝灰岩の不透水層(神崎寺下には露出)に出あい,この表面から湧き水となって出てくる。したがって,水戸の上市台地の緑辺に当たる所には,比較的泉となって水が湧き出ている所が多い。たとえば,現在の雷神前・青川の谷は,上市台地の端から集中湧水することによって浸食されたものである。また,幸町(現備前町)の空濠の奥から清泉が湧き,かつて泉町の酒屋がこの水を汲んで,酒の醸造に用い「金名酒」と名づけて販売していた。台地の斜面から湧き出す泉として著名なものとしては,吐玉泉(とぎょくせん)・曝井(さらしい)・小沢の滝などがある。

 特に曝井は,「万葉集」九巻に「那賀郡曝井歌一首」と題して「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむ彼所(そこ)に妻もが」という歌がある。歌の意味は,「那賀に向かって流れる曝井の水が絶えぬように,私も絶えず通おう。そこに妻があればよいが。」となる。また,「常陸風土記」には「其(河内駅家)ノ南ニ当リテ,泉,坂ノ中ニ出ヅ,多(さわ)ニ流レテ尤(いと)清シ,曝井ト謂フ,泉ニ縁(そ)ヒテ居(す)メル村落ノ婦人,夏月会集シテ布ヲ浣(あら)ヒ,曝(さら)シ乾セリ」という記事がある。この泉は坂の途中から湧き出しており,水量豊富で水質もよかったため泉の付近の村の女達が大勢集まって,布を洗ったり,曝したりするというのである。

 この曝井が現在のどこに当たるかについては江戸時代からいろいろな説があるが,市内文京の滝坂途中の泉・渡里町小岩井の湧水の2つが有力とされている。特に,坂の途中・付近に「曝台」の字名があることなどにより,滝坂の泉ではないかといわれている。明治11年には「曝井」の碑も建てられた。現在の袴塚付近の人たちの生活を曝井が支えていたといってよいのであろう。

 水は人間にとって欠くべからざるものであり,ことに古い時代ほど人びとの生活は自然の井泉に頼ることが多かったのである。井泉を中心に村の人びとの生活が行われていたことが風土記には多く記載されている。水戸市内のみならず,久慈郡密筑(みつき)里の大井,新治(にいはり)郡の新治里井,行方(なめがた)郡行方里の玉清(たまきよ)井などについても,人びとと井泉の密接な関係が記録されている。