現在の水戸市は,江戸時代の城下町が基盤となって発展していることはいうまでもない。
徳川家康の第11子頼房が水戸城主となり,その後260年の間,水戸藩は親藩として栄えた。水戸城は台地先端を利用して築造され,那珂川・千波湖を防禦に使い,東西に伸びる細長い台地上の浸食された谷を利用して,南北に5条の堀を掘った。居住に便利な台地には主として侍屋敷を大規模につくり,飲料水は井戸に頼っていた。上市台地は4メートルから5メートルの洪積層でその下はセメント状の凝灰岩層になっており,地下水が滞水するため主として共同井戸を掘って水を汲み上げていたという。また居住に不適な低湿地の下市は,台地を切りくずして埋め立てられた。下市は沖積地であるから,その地下水は飲料水として不適であり,その不便を解決することを目的として笠原水道が敷設されたのである。
近代になってからは,上市の旧市内(栄町付近から水戸駅よりの地域)では,一軒一軒の家で個有の井戸を持つことが多かったようである。ただし,台地の末端に近い場所では低地と20メートルの高度差があるため地下水位が低く,水質が悪いため,深井戸を掘らなければならなかった。
また一方,上市でも新市内(栄町から赤塚方面よりの地域)には,江戸時代より近代まで長屋式の住居などがあった。それらは,経費の面から個別に井戸を持てず,4軒から5軒でひとつの共同井戸を使うということが多かったようである。
下市方面でも笠原水道の恩恵にあずかれなかった現在の吉沼・渋井・谷田・大野などの地域では,最近まで濁った水をこす方法を独自に開発しながら,井戸に頼って生活したのである。