近世初頭,水戸の台地上の町は,江戸氏,佐竹氏,武田氏,徳川氏と領主がかわるごとに拡大した。そして寛永2年(1625)水戸藩初代藩主徳川頼房のときに,台地下に田町が作られて城下町の商業機能がまとめられ,水戸の町の様相は一変した。
田町の造成は元和8年(1622)ごろから,台地の東南,千波湖の東岸と桜川・備前堀の岸一帯の低湿地を埋立て10数個の町を作り,台地上の大町,中町,南町などから町人を移住させた。この移住を水戸の歴史では〝田町越え″といい,古い家柄の町人は田町越えを自慢にしたものであった。
町について典型的な例を紹介すると,ひとつの町は,中央に10間幅の道路をとり,その両側に10戸の屋敷をおく。1戸分は間口6間奥行20間つまり120坪分が1戸前の屋敷地で,総計3,000坪から成る。町の入口に木戸をおく。木戸は朝晩,定刻に開閉する。木戸のそばには,木戸番と自身番の小屋があり,不審な物や人物は誰何(すいか)する。2,3町に1人の名主(なぬし)と各町に1名の組頭(くみがしら)がいる。町地に土地や家を持っているものが地主・家主で,いわゆる町人といい,領主への諸負担,町の経費を拠出する。そしてその町人が町の自治制をつくり,町政を運営してゆくのであって,裏長屋の住人,当時の言葉でいう店借(たながり)は家賃を払っても町の経費は負担せず,町の自治制には参加出来ない。近世農村の本百姓と水吞(みずのみ)百姓の関係に照応するのである。
城下町は数名の町年寄(まちどしより)が選ばれ,月番制で町会所に出勤して庶政を処理する。その職はほぼ世襲であったが,若干の交代もあった。下町では加藤又衛門,上田作十郎,落合長四郎,左近司長三郎,前野兵右衛門,江幡治郎衛門,鈴木太兵衛,岩田太郎衛門,小泉太郎衛門,笹島兵介等,上町では小林弥平,塙茂次衛門,軍司与四郎,林八郎衛門,大高織衛門,加納与衛門らの諸家であった。これらの家はいずれも水戸に古くから住み,町の発展に寄与して来た。たとえば前野家は江戸氏,佐竹氏,徳川氏の各時代を通して町年寄をつとめ,加藤家は佐竹氏の旧臣であり大町に居住していたが,田町建設に協力して移転し,その功により町年寄になっている。
町奉行所の役人が小人数で運営出来たのは,町方の行政事務の大部分を町会所の町年寄,町名主にゆだね,また,町人の自治制に負うていたからである。町会所は町奉行所の下請け機関的であった。
さて,江戸時代の水戸の人口はどれほどであったろうか。残念ながら,水戸の町の武家と町人の両方を同一時点で把握出来る資料はない。明治4年(1871),廃藩置県の時の水戸藩の調査では士族1万1,026人,卒族1万1,646人とあるから武家の人口約2万3千人,町方人口は天保4年(1883)町奉行小宮山楓軒の推定を借りると,人別帳に7,000余人,人別帳に記載されていない者が1,900人ほどとあるので,年代による増減や,武家のうち江戸住いを差引いても3万人前後であったろうと考えられる。
このため,その過半の人口が,低湿地帯の,井戸水も十分でない下町に住んでいたのであった。質のよい飲料水が求められたのも当然であった。
水戸藩の法令を集成した「水城金鑑」によると,寛永4年(1627)12月,田町水門奉行として雨宮十左衛門君重,深沢八右衛門某が任命された。そして,城下の近郊吉田村地内の二つの溜池から水を取ること,用水樋の用材は近くの藩有林から伐出して,早期完成につとめること,工事は郡奉行の指揮下に,田町の町人たちを動員することなどを通達している。
この工事の進捗状況や給水の規模は判らない。だが,のちの笠原水道が完成するときに,恐らく吸収されたものと思われる。
なお,寛永8年(1631)9月,通達があって,長屋前の掃除,水道の保守について十分に気をつけること,水道を滞らせたならば罰金として銀1枚を取ることとされた。だが,この通達が江戸屋敷内の武士の長屋あてであるか,水戸の武家あてであるのか,確認出来ないので紹介だけにとどめておきたい。