2 後楽園と神田上水

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 水戸徳川家の江戸屋敷ははじめ千代田城内,紅葉山の西の松原小路にあった。そして,元和8年(1622)に駒込屋敷,寛永6年(1629)に小石川屋敷を幕府から与えられた。明暦3年(1657)の江戸大火は千代田城内も焼き,松原小路の水戸藩屋敷も焼失したので,水戸徳川家は小石川屋敷を拡張し,ここを上屋敷とした。それで,水戸徳川家の屋敷は小石川(9万,9754坪),駒込(中屋敷,5万4,200坪),目白(中屋敷,9万7,000坪),小梅(下屋敷,1万8,500坪)等となった。

 この小石川邸はあの有名な神田上水をかかえ込んでいた。徳川家康は江戸入府以前の天正18年(1590)に家臣大久保藤五郎に命じて江戸に水道を開設させた。

 藤五郎は小石川に水源を求め,目白台下あたりの流れを利用して神田方面に上水を導いた。それが次第に拡大されて,寛永6年(1629)ごろには,井の頭池を水源とする神田上水が完成したものと考えられている。

 完成したのちの神田用水を略述すると,水源は井の頭池で,途中で善福寺川・妙正寺川等の水を加えて小石川の関口にいたる。ここまでが開渠で約22キロメートル,小石川の関口に石堰を作り,ここで水を左右に分ける。右は江戸川に落ち,左は取水口から目白台の台地下の堀に入り,広大な水戸家小石川屋敷地に入り,屋敷内の庭園の後楽園の背を通り,屋敷地の東へ出て暗渠となって南へ折れ,現在の水道橋の東側を懸越の樋で神田川を渡り,神田・日本橋方面,つまり江戸の東北部市街地に給水していた。暗渠の延長距離約67キロメートルである。

 藩主頼房は小石川屋敷を拝領してから神田上水を通したのではなく,神田上水の通っている土地を拝領したのであった。参勤交代制がきまったとき,大名たちはあの江戸の泥水を飲むのかと歎いたという。御三家のひとつ水戸家が,その定府制を言いたてて,水道のある土地を拝領したとしても不思議ではない。

 さて,小石川屋敷には有名な庭園後楽園がある。初代藩主頼房の時に造られたもので,設計は京の著名な庭師徳大寺左兵衛,工事には幕府の重臣酒井忠世,土井利勝らがあたり,将軍家光も伊豆その他から巨岩奇石を運ばせたりした。明暦3年の江戸の大火で本園も焼損したが,二代藩主光圀が本格的に工を起し,寛文9年(1669)頃完成した。光圀の尊崇した明末の亡命僧朱舜水の命名で本園は後楽園と名付けた。民に先んじて憂ひ,民におくれて楽しむの語句から取ったものである。

 この地ははじめから巨木が多く,土地の高低沼沢の自然を生かし,東部に書院を,南部に棕梧山・木曾谷・竜田川・西行堂・桜馬場など,西部に一ツ松・硝子茶屋・大井川・西湖・渡月橋・丸屋・小盧山・観音堂・音羽滝・琉球山・大黒堂・得仁堂・通天橋・円月橋,北部には松原・福祿寿堂・不老水・八ツ橋・水田・稲荷社・河原書院等を設けた。全園回遊式で,大池泉を中心に,山あり滝あり,流水ありで,江戸初期の名園といわれるが,その豊かな水は神田上水から取り入れている。


小石川後楽園の図(東京都教育委員会「後楽園」より)

 光圀がのちに,国元に笠原水道敷設を命じたのは,小石川屋敷において藩主以下武士の飲料水と庭園の水を神田上水で養った経験からであり,光圀の長子頼重が讃岐高松に封ぜられて早速,高松上水道を作るのも,同じ経験からと思われる。

 ついでながら,現在の後楽園について記すと,東京市の近代改良水道の普及により,明治34年,神田上水は廃止された。しかし,小石川関口の取水口から水道橋までの水路は残っていたので,後楽園内の水流は生き残ったのであるが,昭和8年に関口以来の水路も消滅した。それで,移管された東京市によって,後楽園萱門外に井戸を掘り,その水で潤すこととなったが,従来の,後楽園内の神田上水取水口は今に残っている。