1 笠原水道建設の経緯

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 光圀は水戸の新開地である田町への上水道敷設を分別五郎左衛門に検討させた。

 知恵分別第一の五郎左衛門とは時の奉行望月五郎左衛門恒隆のことである。水戸藩士の系譜をあつめた「水府系纂」によると,恒隆は寛永16年,江戸城西丸の惣堀修造を水戸藩がお手伝い普請したときの藩の責任者で,老中松平伊豆守信綱からその人物を激賞されたり,正保3年(1646)幕府命令により諸国国絵図を作製する時,常陸国絵図を担当して褒詞を得たり,「諸帳を暗誦し,事に臨みてその是非を析するに聊も差謬なし」といわれた人物であった。奉行職に居ること26年,延宝元年(1673)78歳で没した。


望月恒隆の墓(市内酒門原共有墓地)

 恒隆は水道敷設につき,平賀勘衛門保秀に調査を命じた。保秀は「水府系纂」によると,下総佐倉の堀田家の臣であったが,堀田家取潰しのため浪人となり,寛文2年(1662)11月,光圀の時に500石で,大番組の士として抱えられている。「天文を善くす」というが,それでも破格の待遇である。寛文9年(1669)郡奉行,延宝5年(1677)致仕して舟翁と号し,天和3年(1683)没した。年齢不明である。光圀は彼が老体になったので,天文の術が絶えるのを惜しみ,大内貞庵が日ごろ,保秀について学んでいるのを聞き,貞庵に天文の術を残らず伝授されることを命じ,その他2,3の者にも稽古するよう命じている。

 さて,保秀は調査の結果,笠原を水源とし,笠原から逆川に沿い,千波湖南岸から下町へ導水することを計画した。

 笠原水源は笠原不動尊の境内にあって,すでに正保元年(1644)に笠原一帯の山林は伐木はおろか木の枝を折ることも禁じられていた。ところで,笠原水道の案が採用,決定されるのにひとつのエピソードが水戸藩士石川桃蹊の「桃蹊雑話」にあるので紹介しよう。

 保秀はこのたび水道のことを命ぜられ,水源多き所を調査して,笠原不動谷から水道を引くにしくはないと判断し,奉行望月恒隆に報告,検分を願った。望月が言うには学問に明るい勘衛門が懸命に考えた仕事であるから,自分が検分するに及ばない事ではあるが,役向きのことであるからひととおり実地に見よう。ついては何月何日と検分の日を定めた。その日が来たので,保秀以下,下役,村役人までが七軒町の木戸に集まると,ほどなく,恒隆がやって来たので,各々一礼して藤柄町から笠原へと水道路線を案内しようとした。恒隆はそれを無視して,逆に北へ向って鼠町から千波湖の中に通っている柳堤の中程まで行ってしまった。人々は不審に思ったが,重役の望月,ことに知恵第一と知られた人であるから何か考えがあるのだろうと唯,黙って従って行った。望月は,湖水や対岸の笠原の地形をつくづく見て,さても保秀の学問はすばらしい。今ぞ感にたえたり。この湖水,東西平均のようであるが,自然と東方へ,下町の方に流れている。この地の理に従って,笠原から湖水の南岸を通り,水道を引かんとする工夫は天晴(あっぱれ)であると歎賞したので,人々は且つは保秀の才を感じ,且つは恒隆の智を称したという。

 こうして,笠原水道案は光圀の裁可も得た。工事には永田茂衛門や三宅十郎左衛門繁正も関係した。永田茂衛門はこの時,人夫たちに夜間,提灯を持たせて並ばせ,それを遠望して土地の高低を見たという,俗に提灯測量の法を採ったとも伝えられている。