水戸付近一帯の台地は関東ローム層の下に砂層・礫層があり,雨水はこれを浸透して凝灰岩の不透水層にぶつかって地表へ出て湧水となる。笠原地方は下町に対して地形的に高く,森林によって涵養された豊富な地下水を持っていた。
笠原の台地の崖端には,当時,銀河寺があり,その不動堂の石段下の左右四か所に湧水を溜め,青銅製の竜頭を作ってその口から水を出させて下の溜桝に水を集めた。
それからの導水樋は逆川を越え,吉田台地の下を北に下り,千波湖の南岸を東に迂回して吉田神社下の藤柄町に至る。さらに,備前堀を懸越の銅桶で渡し,七軒町から本一町目に出て,本町通りを東へ裏十町目にのび,さらに新町を経て細谷に達する。長さは5,913間(約1万0,751m)であった。長さでは江戸の神田上水に及ばないが,仙台の四ツ谷堰用水,福山水道より長く,他藩の水道が開(明)渠であったのに対し,水戸の笠原水道は暗渠であるのが特色である。
笠原水道の工事は寛文2年(1662)にはじまり,翌3年7月に成った。その全行程の詳細は判らないが,町年寄加藤松蘿の採集した記録の中に,寛文3年7月13日から17日まで町方から提供した人馬の数が出てくる。それを整理すると43頁の表のようになる。下町の町人ばかりでなく,上町からも多数,参加していることが判る。
工事に使った人足の延人員は郷村からの人足1万3,931人,町方人足3,101人,足軽7,982人合計2万5,014人,経費は金554両3分と鐚780文であった。そのうち人夫賃が415両280文,材料費139両500文で,人夫賃は全体の75パーセントを占めるけれども1人当りの賃銭は60文であった。この額は当時の人夫賃に比すればはるかに安いので,恐らくは奉仕の形で参加したものと考えられる。
笠原水源地は杉檜などの老木が多く,幽深の地であった。義公光圀はこの地を愛し,天和3年(1683)逆川のほとりに小さな茶亭を作って漱石所と名づけ,しばしば来遊して曲水の宴を催し,また,城下の町人を招いたりした。藩士や町人の探勝する人々も増えて来たので,水源地保護のためにつぎのような禁令を出している。
1,禁不動堂上食肉乱行
1,禁漁釣前池
1,禁携美妓甘酒耽逸楽及夜陰
1,禁座論前後競争便地而喧囂
1,与漱投覃肉唯浮觴浸瓜菓北泉流不在此限
この禁令の大意は,笠原不動堂内で肉食をしないこと。
乱暴な行いをしないこと。
不動前の池で釣や漁をしないこと。
美人をつれての飲酒や遊びに耽り,夜陰に及ぶようなことをしないこと。
不動堂や水源池での喧躁な振舞いをしないこと。
泉流に菓物類を冷やすことや口を漱ぐこと。
また,盃(觴)を浮べての風雅な行いはこの禁令の限りではない等である。