3 水道の構造

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 天保5年の「御町清水道方角図附深浅」によると,不動下に横3尺,幅2尺2寸の滝元溜桝がある。ここから逆川の橋まで岩樋で7間5尺5寸,岩樋は蓋から4寸から6寸の深さで土中に埋設してある。逆川を横切る樋は川の両側に桝を作り,木樋を渡し,樋の上に橋をのせた。逆川を渡ってからは岩樋になり,山手の上の方で4尺から5尺,下手で2尺位の深さに埋設した。昭和57年の水戸市教育委員会発行の「笠原水道確認調査報告書」によると,岩樋は凝灰岩の平岩を組立てたもので,岩の継目がきれいに密着しているもの,粘土を張ったものなどいろいろであり,岩の大きさは厚さ3寸5分,横1尺,縦2尺ほどのものを底部と蓋に用い,壁岩には厚さ3寸5分,横3尺,縦1尺7寸ほどのものを用いている。この岩樋の材料は神崎寺(現偕楽園下)の崖の岩を切出したものである。

 藤柄町から紺屋町の備前堀の岸までは道路の北側に岩樋を埋設した。備前堀の所は堀の両側に桝を作り,堀上を銅樋で渡し,七軒町から本1町目を経て7町目までは道路の南側に岩樋を埋設,曲尺手町は木樋でつなぎ(後述するように,7町目木戸際を下水道が通り,清水道と交錯するので,天保5年に清水道の樋を石樋に交換した),8町目から下新町6丁目まで,道路の南側を岩樋で通している。以上が水道幹線であって,武家町へ分岐する水道はほぼ道路中央に岩樋を埋設,町人町へ分岐する水道は道路南側に木樋,竹樋を埋設したものが多い。これら水管は昭和に入って近代水道の敷設時の工事中にしばしば堀り出されている。そして町内に1個の割合で溜桝を設置し,人々はその溜桝に日常の飲料水を汲みに行った。各戸給水になるのは明治に入ってからのことである。


岩樋(市水道部保管)


竹樋(市水道部保管)

 七軒町の懸樋は銅樋を使った。昭和11年の「旧水道伊奈堀架設銅樋修繕工事書」は江戸時代と同じ工法で修繕しているが,それによると,延長約56.4尺余,銅の厚さ約1分,縦・横それぞれ2寸の角樋であった。これを板で囲い,それを保護するために片側8本づつ2列の脚柱を立て,屋根をつけた。正徳5年(1715)の記録では,この銅樋は江戸から舟で運んだもので,その総経費は明らかでないが,11間分の銅樋の費用が計上されている。この懸越樋は堅固であったらしい。天保の記録に懸越樋の上で子供が鬼ごっこをやっていたり,大人が夕涼みに登っているのでしのび返しをつけたらどうかという意見があったとある。


銅樋(市水道部保管)


七軒町の懸樋(昭和11年「旧水道伊奈堀架設銅樋修繕工事書」市水道部保管)

 嘉永3年(1850)夏,懸越の銅樋の高さを上げようということになった。理由は千波湖の洪水でしばしば,銅樋に濁水がかかるから,それを避けるためである。慎重に計測して,樋の高さを従来より1尺6寸上げ,それにともなって,銅樋につながる岩樋を松並水切場から41間のあいだを,1間につき4分づつ,底部を上げ,銅樋受桝の所で1尺6寸高にした訳である。

 これは大変に話題になった工事で,町奉行所から三木孫太夫,大胡丹蔵らが,町会所からは木村伝六,立原甚右衛門,鹿志村彦衛門ら町年寄も検分のために出ていた。