水戸の学者立原翠軒(1743~1823)の著といわれる「水戸歳時記」「水戸風俗問状答」は江戸中期の水戸の生活風俗を詳しく記したものであるが,その中に井戸に関することが2項出てくる。ひとつは正月に用いる屠蘇(とそ)を,大晦日(おおみそか)の晩に井戸の中へ糸でぶら下げておくということと,もうひとつは子供が生まれてお七夜という行事があるが,この時,産婆が赤子を抱いて井戸に詣るということである。これから見ても,当時井戸はかなり一般にあったとみてよいのであろう。だが,幕末の水戸の学者青山延寿(1819~1906)が田見小路に住んでいて,弘道館に出仕したり,自塾での講義のあいまに自宅の井戸浚いを自分でやっていることが日記に出ており,そう深い井戸ではなかったろうと思われる。
江戸時代の井戸掘り職人の間では地下6尺から9尺位の水を上水,地下10間位の水を中水,地下22間以下の深い水を本水と呼んだ。この上・中水はそのままでは飲料に適しない。本水はいわゆる不透層の岩の下の地下水で,良質の冷たい水であるが,鑿井(さくせい)技術が未熟で,なかなか,得ることが出来なかったものである。
享保の頃,掘抜きという技術が工夫された。「あおり」というバネ仕掛の鉄棒を用いて,地下数百尺の岩盤を破砕する方法であるが,費用が200両もかかるとあって普及しないでいたものを,文化・文政頃には技術も改良されて,井戸側もふくめて3両2分強の掘鑿料となり,深井戸は各地に普及した。
水戸地方で深井戸を掘ったのも,そう遠いことではなかったと思われる。