寛政年間以前には,水戸の町屋はほとんど板葺きか萱葺きであったので,火が出ると大火事になりやすかった。
いったん,罹災すると生活の資をすべて失うことになるから,防火の制には早くから熱心であった。防火制といっても,江戸のように火消人足が常置されていたのではなく,町方の藩主に対する多くの義務のひとつとしての火事役であった。御城や武家屋敷での火災の際に消火活動したり,また,町方の火災の時の消火にもあたるものである。
寛永16年(1639)12月の令では,出火の時,「侍屋敷では近所の侍が出会って消火し,また何処であっても町奉行が組の足軽をひきいて町人どもに手桶をひとつずつ持たせて消火させる。消火の町人たちに油断や怠ける者があればその町内から過料を取る」とある。
また,平生,失火を警戒し,大風の時は昼のうちに夕食をすませ,湯茶を飲まず,火をしめしておくように命じられた。火をしめすとは,むかしは火打石で火をおこし,火種と称して炭火を灰の中に保存していた,これに水をかけて消すことを意味した。風のある時に火を焚かねばならぬ者は届け出させ,町同心が巡回した。
「店借(たながり)の者が火の用心を怠ったり,火災の時に自分の道具の搬出ばかりして消火を怠った者は入牢,または町払い(追放)とする」とも定めた。さらに,放火の取締りのため,犯人を訴え出た者に金10両を与えたこともあった。
天保年間のことであったが,下町の福島屋前に立札があって,自分が福島屋に財布を忘れたが,福島屋では何のかのといって返してくれない。怨をはらすため放火するから,近所の人は用心してくれとあった。消火体制が充分でない頃のおどしとしては大変に効果があった。
町方では防火道具を,つねづね揃えておく義務があった。天和元年(1681)の上町の例を表「上町火事役」に示す。
また,天保頃の上町の例であるが,火の見番として小間口1間につき13文1分を春・夏・暮の3回徴収して火の見番人の手当てとし,さらに,火事役として,6間間口につき2朱を集め,火消人足の費用としている。
町方でもそれぞれに消火用具は準備していた。雨水を天水桶にためて防火用水としたり,土蔵の防火用の目塗り用に土を毎日ねり直すなどどの家でも心がけていた。
防火用の大天水桶は,上町の例だと,上金町の高札場・鉄砲町の芝付・上金町三町目北・同町の角・下金町・太郎坂・下金町と五軒町の入口・同町の土手際・泉町の高札場・同三町目広小路・同町の角などにあった。他町でもこの程度はおかれていたらしい。また,火消用水場(おそらく,小規模の湧水か井戸であったと思われるが)は,上町の例だと地形的には谷の場所にあたる,了性寺下・藤坂下・太郎坂・泉町・川和田横町・新大工町・北横町・向井町片町にあった。そして,いざとなれば,上水道の溜桝の水も,下水道の水抜きの汚水も使用されたのである。
水戸の歴史に残る多くの火事のうちでも,天和元年(1681),寛延元年(1748),明和3年(1766),寛政11年(1799)の火事はとくに大きかった。
寛政11年の下町大火災は裏四町目から出火して11の町内を焼いたが,そのあと,消防制の改革が行われている。
すなわち,纒(まとい)は華美であっても消火の役に立たないから質素にする。木の梯子は運搬に重いから竹の梯子にする。水桶は重いから水籠にする。火の見やぐらがないから,上町では金町・泉町・奈良屋町に,下町には七軒町・本町へそれぞれ町人の拠出金である町入用で手軽に作ること。火の見やぐらには半鐘をさげる。
また,従来の板屋根,萱屋根を瓦屋根に改造する者へは,藩庫から補助金を出している。
家老の中山備前守,鈴木岩見守の屋敷内にも火の見やぐらは作られた。下町の本町では半鐘を江戸に注文し,重さ2貫750匁,代金1両1分2朱,運賃500文で出来て,寛政12年11月20日に水戸に着き,25日に半鐘のかけそめ式を行っている。
消火用具も改良された。たとえば,七軒町・裏一町目・同二町目・紺屋町の組では
纒1 (2人) 雪洞(ぼんぼり)2 (2人) 水元籠1 (1人)
大振桶1(3人) 水籠15(2人) 竹はしご2(4人)
かけや1(1人) 鋸1 (1人) 鈎綱2 (2人)
竜吐水1(6人) 2 (2人) おの1 (1人)
人足 (10人) 計37人である。
天保12年正月の那珂湊大火,天保14年10月の水戸下町の大火により,烈公徳川斉昭は防火制度の改革を郡奉行吉成信貞と金子教孝に指示した。その内容は『水戸藩史料』別記上に詳しいが,水戸の城下町の火消人足組合の設立,防火道具(竜吐水,鳶口,かけや,鋸,水籠など)の用意,塗屋造り,屋根の瓦葺き,街路の拡張等である。
弘化2年(1845)の上町名主の上申書では上町の町方6町に火消組がつぎのように4組あり,
い組 上金町・下金町
ろ組 泉町・奈良屋町
は組 馬口労町
に組 向井町
各組に仕事師20人がつけられ,組ごとに揃いの半てんを着て鳶口(とびくち)を持ち,火事場へかけつける定めとなっているから,天保の消防改革も割合,進行したものと思われる。