江戸時代の水戸に「下町の蛙」という悪口があったが,それは下町が洪水のため,しばしば水に浸るところから使われた言葉であるという。下町は北に那珂川,南西に千波湖をひかえ,つねに,その水害におびやかされていた。
数多い洪水のうち,享保8年(1723)と天明6年(1786)のものは,まれにみる大洪水であった。
水戸藩士西野正府の「享保日記」享保8年8月大洪水之次第によると,8月8日から10日まで絶え間なく大雨が降り,10日昼頃から那珂川と千波湖の水が溢れ,水戸城下は細谷から谷田・酒門の下まで一面の水びたしになり,本一町目・七軒町・裏一町目・江戸町・水門町・鼠町あたりは舟で往来したという。
天明6年7月の大洪水は,水戸藩士岡本祐鄰の「天明六丙午歳覚書」によると,6日から降り出した雨は16日まで続き,その夕刻に那珂川と千波湖の水が溢れ出した。
その水嵩は東台,四町目裡表,肴町,十軒町南側では家屋の床下まで,七軒町,紺屋町,一町目辺では緑側の上2尺,本二町目から七町目辺は店の縁側まで,曲尺手町通りは5尺以上,赤沼荒神橋際は2階の軒下5寸まで,本八町目から十町目あたりは4尺,新町は4尺6寸,細谷河岸で8から9尺,根本・青柳・風呂の下あたりで11から12尺というすさまじい有様であった。
洪水にあうと,家財は流れる。流れぬものも水を吸って使い物にならなくなる。食料も便所の汚物も流れ,家に泥土がしみついて臭みがぬけない。井戸も水道もしばらく使用不能になるので洪水の時は四周が大変な出水なのに,わずか一杯の飲料水に事欠く有様であった。
大洪水となると水道の施設の保守も大苦労である。
享保8年8月の際は,七軒町の懸越の銅樋覆い屋根の上まで濁水が押し寄せてそのまま滞水する始末で,笠原水道全体に被害がおよんだのであった。
水道が暗渠になっていても,所々の桝形から泥土や汚物が入り込み,しばらくは使用不能で,近在の村から飲料水を運搬するのが常であった。
洪水の際の笠原水道の被害額や復旧費がどれ程の額になったかは資料不足で判らない。
断片的な資料ではあるが,弘化3年(1846)5月18日の千波湖の溢水の時は七軒町の懸越の銅樋に濁水が及んだため,警戒の人足を2人,3日間出動させて計700文の日当が,清水道係の町役人から支払われている。
万延元年(1860)6月,大嵐のため,千波湖が溢水したが,この時,笠原不動尊境内の大杉が4本倒れて,浴徳泉碑の覆屋根をこわしたり,七軒町懸越しの銅樋に奉行所の舟が横ざまに衝突して銅樋を全壊させたりした。その他,洪水後の町々の桝形の総さらえを実施したりしたので,これらの費用は16両3分115文ほどになった。
火事には消火用として,洪水には飲料,洗濯,浴用として使用できる清水道の有難さを,町の人びとは改めて感じたのであった。