近世初頭に成立した城下町は,延長距離にすると,上水道よりもはるかに長い下水道をもっていた。暗渠でなくとも堀割川もその役を果したのである。
下水といっても,何もかも投げ込んだものではない。江戸時代の町人は清潔であったから,掃除は行き届いていた。道路は道の中ほどを高くするように砂をまく。道路の清掃は町人の義務である。側溝は雨落ち水をまとめて流す。ここにゴミなど入れると罰せられる。風呂(ふろ)の水,せんたく水は肥料にする。米のとぎ汁は植木にかける。雑巾がけした水は往来にまく。下駄を洗う水は上水では勿体ないから下水で洗ったのである。
水戸の下水道がいつ出来たかについては史料がない。一貫した計画の下に作られたというよりは自然発生的に出来た各町内の下水道をある時期に整理し,所々に溜桝や落とし口を作ってお濠や堀割につなぎ,最終的に千波湖や那珂川に流し込んだものと思われる。
松蘿館(しょうらかん)文庫の「御町御用抜書」の中には江戸時代のかなり早い頃のものと思われる,水戸の上町の暗渠による下水道のことがみえる。これには下水の吐き口が崖や堀のあたりに17か所程が記されている。例えば
三木源八屋敷わきから鉄砲町裏通りの山田伝左衛門屋敷わきまで,町裏に幅3尺ほどの岩樋の下水道を埋設し,水戸城御堀の犬走りまで導いて落とし込む。
鉄砲町南側屋敷裏,武家屋敷くねぎわに幅3尺ほどの下水道が埋設されてある。
下金町太郎坂まで36~7間の埋設下水道の吐き口が2つ,坂下に1つある。
馬口労町入口に埋設下水道の吐き口が2つある。
向井町一町目の堤の所に埋設岩樋の吐き口が1つ,また,板樋の吐き口が1つある。
新大工町北側裏通りに吐き口が1つある。
泉町入口の福島屋向う角の久四郎屋敷脇に下水吐き口がある。
泉町広小路の土橋両側に吐き口が2つある。
泉町の肴町に吐き口が2つある。
奈良屋町と黒羽根町の入口両角に吐き口が2つある。
梅香坂下に吐き口が1つある。
和正院町下に吐き口が1つある。
等である。
下水道の埋設も,上水道と同じく,町人たちの資力で築造されたものであった。