水戸の下水道の導管はたいていは木製であった。文政頃の泉町の名主組頭から町年寄への書面に,泉町には昔から町木戸が8か所,下水の吐き口が6か所あり,その修理が忙しく,経費がかかる。とくに下水道は,町内に肴町があって魚問屋が大量に水を使用するし,材木の老朽化も早い。往来も狭いので,馬が下水道の上を歩き,しばしば下水道を踏み破ってしまう事が多い。そのため板樋の下水道でなく岩樋にしたいとのことであった。
下水道補修の手続きはどうであったろうか。
天保6年(1835)8月,泉町の造酒屋日根屋宗五郎が,お堀に落とす町内の下水道が故障したので,下水道修理方を町方役所へ願い出た。日根屋は酒造業であるから大量の水を使うからである。町方の役所では町奉行所へ伺いを立てると,町奉行所は普請奉行配下の普請方に照会した。その回答には,下水道の埋設・修理は町方の負担で行うこと,堀の土手の中ほどに下水の落とし口を開けることは美観をそこねるばかりでなく,堀の土手の壁面も傷めてしまうから,堀の基部へ下水の落とし口をつけ替えることなどとあった。伝達を受けた日根屋は,経費を全部自分持ちとし,早速,工事に入った。道路を掘って木製の下水道管を全部揚げて代りに岩樋を埋設し,堀に落とすところは急勾配で下げて堀の基部に開口させ,堀の土手の芝を貼り替えた。材料費,工事人足の手間,工事に要した日数も大分かかったとあるが細目は判らない。
なお,埋設工事も勝手にする訳にはいかなかった。上金町の番所わきから酒葉屋三右衛門のわきまで下水道を埋設した時には,最初に町奉行所の同心が立合い,その後も,時々,見廻りに来たのである。
下水道の模様替もあった。天保13年(1842)のことであるが,神応寺の前の海老屋才兵衛宅の前の下水溜桝が道路上に割合高く出ていて見苦しいばかりでなく,往来の邪魔にもなるので岩で桝を作り,埋設したいとの願書が向井町名主から出され,認められている。
下町の場合,天保13年の「下町下水普請控帳」が1点残っているが,これによると
本一町目 両側11間 肴町 土橋両側7間
江戸町 土橋両側5間 本四町目 140間
裏一町目 109間2尺 青物町 土橋両側4間
本二町目 114間 本五町目 両側120間
檜物町 土橋両側8間 葭町 土橋両側6間
本二町目 20間 本六町目 両側120間
檜物町裏下水 両側116間 本七町目 両側120間
本三町目 両側120間
等と書き上げてあり,末尾に清水道係の弥平,忠兵衛,庄兵衛,落合長四郎らが署名,捺印している。下町の下水がいつ作られたかは判らないが,天保頃では相当な延長距離になっており,その修理も清水道係の管轄下であることが推測される。
生活雑排水,便所の汲み取り,ごみ処理など生活に密接なはずの問題についての資料の残存は少なく,調査は難しいものである。