下町の水道は敷設以来百余年を経過した。その間,水道管の手入れは必ずしも十分ではなかったから,所々に破損,洩水があったばかりでなく,水質悪化,水流不良,時には長時間の断水もあったりして,当時の表現によると町人は飢渇同様の状態であったという。
町会所では寛政12年9月水道工事の巧者であろうか,下野国栃木町の源蔵を招いて検分・修理させたが,さしたる効果はみられなかった。
水道係の佐藤五衛門は藤柄町の佐兵衛に調査させたところ,竹・木・岩等で作った水道管の継ぎ目や破損個所から樹木の根が入り込み,太い根が何メートルにものびているものやら,細かい根がからまり合って管内一杯に繁茂しているもの,破損個所から泥土や砂利が落ち込み,水行を妨げている所など,多数の問題の個所があることが判明した。
佐兵衛の試算によると,笠原滝坪際から新町まで幹線水道1,707間余,全部修理するとして,人足3,416人,この賃銭683貫200文。但し1人につき200文日雇1間につき2人がかり。
岩切日雇569人,3分3厘。この賃銭金35両2分2朱。但し3間に付1人がかり。金1分に付4日の割。
取替岩1,707枚,この代金53両1分2朱。但し1間に1枚ずつ。金1分に付8枚のつもり。
根太工1万7,080肩,この代854文。但し1間に10肩つもり。100文につき2肩の割。
かる杭1万7,080本,この代569貫332文。但し1間に10本。100文に3本の割。
置土1万7,080肩,この代284貫664文。但し1間に10肩つもり。100文につき6肩の割。
計金80両銭2,391貫200文(この金367両3分と824文)外に水口直しに7両余とあって,463両ほどとなった。
そこで,町方では,若干の仕様替をふくむ水道の大修理,幹線で1,707間余,支線をふくむと9,000間の水道修理を決意した。
費用は従来の町方の積立金,町人からの臨時徴収金,町奉行所からの借用金等をあてることとした。町方の水道積立金は安永以来200両あり,年々の利子で水道補修していたものであり,町奉行所からは享和2年7月さいわいに金100両を無利足10か年々賦返済の好意的条件で借りることが出来た。
これより先,享和元年のことであるが,水道工事費を店借たち,いわゆる裏長屋の住人に負担させるか否かが問題となった。
従来,領主への諸役負担,町方への諸役負担は地主家主など町人といわれる階層の義務であって,裏長屋に住む店借らは店賃や地代を地主家主に払っているが諸役負担の義務はないのであった。
水道管敷設地は3尺はば(約1メートル)と創設以来きまっていたが,時代がすぎるにつれて隣地から侵害されている個所も多く,水道大修理を行うに先立ち,水道管敷設用地を3尺幅に切り落として,草木を刈り,上地を削り,杭を立てる作業をするのであるが,その人足賃銭を店借たちにも負担させられないかということである。
町役人たちは再三協議を重ねた。店借の工事金拠出は従来の慣習を大きく破り,町人たちの町政をゆり動かす契機を作るのではないかとの懸念もあったが,経費不足でもあり,老人・寡婦等を除いて,店借1戸あたり72文(当時の人足の賃銀のほぼ半分にあたる)を拠出させることとした。そして,店借たちを水道工事の人夫に雇って賃銀を支払うこととしたのである。
享和2年(1802)秋から工事はすすみ,主要部分の工事は翌3年に行われた。
この時の水道係の町方役人は,町年寄の加藤又衛門・七軒町名主の佐藤五衛門・本七町目名主の林長次郎・本四町目名主で問屋の左近司長三郎・清水町名主の斎藤忠次衛門ら豪商であって,いずれも人柄がよく,町方の自治運営に熱意をもつ人たちであった。とくに加藤又衛門は歴史に詳しく,古書古記録の収集に努め,水戸藩史局の彰考館御用を命ぜられており,のちに,笠原水道記念碑である「浴徳泉碑」建立の中心となった人物であった。
工事をはじめるについて,町方では代替用水の確保に大変に苦心をした。何しろ長期にわたる全面断水は許されないことであるから。それで,町方役人は吉田村で農業用水に使っている吉田村の湧水(水戸藩家老山野辺主水正屋敷下にある)を利用させて貰うため,山野辺家の臣長谷川四郎衛門や吉田村の村役人と再三再四,交渉を重ねて,やっとその許可をとりつけたのであった。
工事遂行については,藤柄町の佐兵衛の努力が大きい。
従来の水道工事をみていると,渡り者の水道人夫は専門技術を鼻にかけて威張り,工事は仲々,進捗しない。それではと農村から人夫を募集すると賑やかな町が珍らしくて工事中に町を徘徊してこれまた工事は進捗しない。それで,佐兵衛は,今回の工事は子々孫々に残す大事業であるからと自ら志願して工事を請負い,身元確かで実貞な者を集め,明け六つ(朝6時)から仕事にかかり,骨身を惜しまず働き,納得するまで仕事をした。材料も十分に吟味した。しかも予算はぎりぎりにまで切り詰めたのである。
享和3年3月,工事は完成(実際には同年9月までかかる)し,3月19日に町奉行戸田銀次郎,雨宮又衛門の検分を受けた。紺屋町の懸越銅樋や分水桝に溢れるほどの用水を見て町の人々の喜びは如何ばかりであったか。水道関係者には工事人夫まで町奉行から慰労の酒が下賜され,とくに藤柄町の佐兵衛へは町奉行の褒詞が町年寄を通して伝えられた。
水道係の町役人の苦心も大変であった。工事期間中は家業をさしおいて出勤した。出勤日数は,たとえば五衛門は86日,長次郎は57日,忠次衛門は71日であった。
工事の総経費は不明であるが,堀口友一氏は享和3年の1年分だけで鐚1,043貫689文と算出している。享和2年の分を加えればなお多額になったであろうことは容易に推察できることである。とにかく,この年の水道大修理は町の人びとに長く語り継がれたものであった。