3 浴徳泉の碑

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 笠原水道の記念碑として有名な「浴徳泉碑」は笠原水道の水源近く,逆川の西岸に在る。

 文政9年(1826)5月の建立で,碑石の高さ1.15メートル幅1.39メートルの自然石である。


浴徳泉の碑(市内笠原町)

 この碑石建立の発案は下町の町年寄加藤又衛門堅安ら享和の水道大修理に関係した人びとであった。自分たちの苦労と創設の平賀勘衛門,永田勘衛門らの苦心を重ねあわせての発想であったろう。

 碑面の題字「浴徳泉」は当時の藩主斉脩(なりのぶ)(第8代,哀公)の詩句の「今猶浴先君徳」から選び,景山公子(のちの斉昭,第9代藩主,烈公)が隷書体で記したものである。題字下の「浴徳泉記」なる文は彰考館総裁幽谷藤田一正の作で,それを書家としても名のある静巷宇留野弘(水戸藩士,彰考館員)が書いたものである。題字といい浴徳泉の文章といい,また,その書も水戸において当時一流のものであった。加藤又衛門らの胸中,いかばかりであったろうか。

 さて,碑文はつぎの通りである。

浴徳泉者其源出于水戸城之南吉田郷笠原不動阪下有銅龍受其瀑水水

自龍口吐阪之左右有泉四穴匯而会於一為匿溝而導之水由地中行逶迤

東北暗流偏于城東十街之市所在為井可用汲萬口之民朝夕資以飲食焉

昔我 先君威公始封水戸水戸之為城也南抱仙湖北踞珂江左濱田右常

磐其地勢西高而東下寛永中大脩郛郭増廣規制廼塡濱田之田以開廛里

徙商賈之民在城西者以實焉謂之田町民無遠近顚蔵其市者日衆紅塵四

合煙火比屋而獨患土薄水濁其味苦悪不可以飲或嘗謀引吉田之池水以

甘民食而所及不廣及 義公襲封考遺訓咨故實大行仁政寛文三年始就

國命為新井時有下総人平賀保秀者通天文地理之學 威公聘之未及命

職而 公薨於是使保秀専掌其工役乃相笠原之地有冽寒泉其甘如醴䟽

鑿以利其水道其導之也善因地勢審曲直量高低大要傍林薄蓊鬱而為陰

溝其下故水気常潤旱歲不涸或以石為甃或以木為楲謹其盖蔵通其壅塞

故不使濁流汚穢入焉至於紺屋七軒両街之間跨仙湖下流之處則特設銅

匱以架之如棟之隆其長六丈有六尺盖泉水発源笠原東過富澤折而北又

轉而東至藤柄東北至紺屋街踰七軒街又東北流自第一街歴第十街至新

町而止其水道凡三千七百九十有五歩而厮流旁出則不與焉用夫二萬六

千人費金僅五百五十餘兩而工役告成盖所謂因民之所利而利之恵而不

費者也歟其後 公屢至笠原觀其泉泉之左為漱石所時或小隊出遊觴咏

其側人或有請伐笠原之木以為墾田者 公慮其害水源不許百年之後其

言莫不皆験嗚呼 仁君之澤遠矣東市父老謹守其故迹至今猶能道其詳

而加藤賢安者最好事愛文雅欲記其來由勒石以傳久遠享和中嘗與衆謀

因市司之吏以請既蒙兪允而記事之文未獲所託是以不果一日請之藤田

一正曰小人磨襲貞石以待者二十餘年願先生有記一正曰諾哉然斯泉無

名不可以不命汝姑待之既而我 納言公聞之為賦七言近體詩 公未嘗

就國親至其地而詩中能盡其曲折有如今猶浴 先君徳之句因賜名曰浴

徳泉 公之貴介弟景山公子為書浴徳泉三大字以授一正俾獲刻之題額

一正嘗聞之故老笠原之泉舟翁所導而 義公實使之舟翁即保秀之號也

保秀以羈旅之臣試用有功父子相継擢牧民之職能盡地力食祿五百石邦

人稱為古今良宰第一則斯泉也呼為舟翁泉亦不為不可雖然非 義公之

能用其材則使舟翁有神禹之智安能底其績哉 今公之賜名特歸美于先

君之徳誠為得体而其文采風流使斯泉生光輝盖亦 義公之余烈矣今公

之明上下受福固莫有井渫不食之患但恨襲封之後未有就國之命他日就

國大脩 威 義之政膏澤之降浹洽於民心則其勒石垂不朽者寧獨浴徳

之泉云乎哉一正雖老矣職在文史執筆以竢

  文政九年歳在丙戌夏五月

                  彰考館国史摠裁藤田一正記

                       門人宇留野弘書

 繁をいとわず,次に読み下し文をつけよう。

浴徳泉はその源,水戸城の南,吉田の郷,笠原不動の坂下に出づ。銅竜ありてその瀑水を受け,水,竜口より吐く。坂の左右に泉四穴あり。めぐりて一に会す。匿溝をなしてこれを導く。水,地中に由りて行く。透迤として東北し,暗流,城東十街の市に偏し,所在,井をなし,もって汲むべからしむ。万口の民,朝夕,資してもって飲食す。昔,わが先君威公はじめて水戸に封ぜられる。水戸の城たるや,南は仙湖を抱き,北は珂江に踞し,浜田を左にし,常磐を右にす。その地勢,西は高くして東は下る。寛永中,大いに郛郭を脩し,規制を増広す。即ち,浜田の田を塡じ,もって廛里を開き,商賈の民,城西に在る者を移してもって満たす。これを田町という。民,遠近となく,その市に蔵せんことを願う者,日に多し。紅塵四合し,烟火比屋す。而してひとり,土薄く水濁り,その味,苦悪にしてもって飲むべからざるを患う。あるいは嘗って吉田の池水を引き,もって民食を甘せんことを謀る。しかも及ぶところ広からず。義公の封を襲ぐに及びて,遺訓を考え,故実を問ひ,大いに仁政を行う。寛文3年,はじめて国に就き,命じて新井を為しむ。時に下総の人平賀保秀という者あり。天文地理の学に通ぜり。威公,これを聘し,未だ職を命ずるに及ばず。而して公薨す。是に於て保秀をして専らその工役を掌らしむ。即ち,笠原の地を相するに冽たる寒泉あり。その甘さ,醴の如し。疏鑿して以てその水道に利す。そのこれを導くや,よく地勢に因りて曲直を審らかにし,高低を量り,大要,林薄蓊欝たるに傍びて,陰溝その下になす。故に水気常に潤ひ,旱歳にも涸れず。或は石をもって甃となし,或は木をもって楲となし,その蓋蔵を謹み,その壅塞を通ず。故に濁流汚穢をして入らしめず。紺屋七軒町両街之間において,仙湖の下流に跨るの所に至れば,すなわち特に銅匱を設けてもってこれに架し,棟の隆きが如くす。その長さ六丈有六尺。蓋し,泉水は源を笠原に発し,東して富沢をすぎ,折して北し,又,転じて東し,藤柄に至り,東北して紺屋街に至り,七軒街を踰えてまた東北流して第一街より第十街を歴,新町に至りて止む。その水道およそ三千七百九十有五歩。厮流傍出は則ち与からず。夫を用ふること二万六千人。金を費やすこと僅かに五百五十余両,しかして工役成るを告げぬ。けだしいわゆる民の利する所に因ってこれを利し,恵みて費やさざる者か。その後,公,しばしば笠原に至り,その泉を観る。泉の左に漱石所をつくり,時に或は小隊出遊してその側に觴咏す。人或は笠原の木を伐り,もって墾田となさんことを請う。公,その水源を害せんことを慮りて許さず。百年の後,その言,皆,験あらざるはなし。ああ,仁君の澤,遠いかな。東市の父老,謹んでその故迹を守り,今に至るまで,なおよくその詳をいう。而して加藤賢安というもの,最も事を好みて文雅を愛し,その来由を記し石に勒してもって久遠に伝えんと欲す。享和中,嘗って衆と謀り,司市之吏によりてもって請う。すでに兪允を蒙れども記事の文,いまだ託する所を得ず。是をもって果さず。一日,これを藤田一正に請うて曰く,小人貞石を磨礱してもって待つこと二十余年,願はくば先生,記すことあれと。一正曰く諾と。然れどもこの泉,名無し。もって命ぜざるべからず。汝,しばらくこれを待てと。既にして我が納言公これを聞きて,ために七言の近体詩を賦す。公,未だ嘗って国に就き,親しくその地に至らず。しかも詩中よくその曲折をつくし,如今なお先君の徳に浴すの句あり。因って名を賜うて浴徳泉という。公の貴き介弟景山公子,為に浴徳泉の三大字を書し,もって一正に授け,これを題額に刻するを得せしむ。一正嘗ってこれを故老に聞く。笠原の泉は舟翁の導く所にして,義公実にこれを使わむとす。舟翁は即ち保秀の号なり。保秀,覊旅の臣をもって試用し功あり。父子相継ぎ,牧民の職に擢でられ,よく地力を尽し,祿五百石を食む。邦人称して古今良宰の第一となす。則ちこの泉や呼んで舟翁の泉となすもまた不可となさず。然りと雖も,義公のよくその材を用ふるに非ずんば則ち舟翁をして神属の智あらしむとも,いずくんぞよくその績をいたさんや。今公の名を賜ふ,特に美を先君の徳に帰す。誠に體を得たりとなす。しかしてその文采風流,この泉をして光輝を生ぜしむ。蓋しまた義公の余烈たり。今公の明,上下,福を受け,もとより井渫食せざるの患あることなし。ただ恨むらくは封を襲ぎたるののち,未だ国に就くの命あらざるを。他日,国に就きて,大いに威義の政を脩めば膏沢これ降りて民心に浹洽せん。則ちその石に勒し,不朽に垂るるはなんぞひとり浴徳の泉のみといわんや。一正老いたりといえども職文史にあり。筆を執りてもっと竢たむ。

 幽谷の浴徳泉記は笠原水道の歴史,建碑の経緯,浴徳泉命名の由来等を簡潔に述べ,しかもあます所がない。なお,読み下しは菊池謙二郎編『幽谷全集』の訓点に従った。

 さて,浴徳泉碑を建立した人びとは,「水戸御用留」によると,文政13年(1830)正月,碑石を保護するため,碑石の外囲いを作った。周辺よりひときわ高く土を盛り,土留めをして杭を打ち,踏段として石段3段を加えた。


浴徳泉外囲いの図(茨城大学図書館蔵「水戸御用留」25)

 碑石の外囲いはこののちも補修されて現在に至っている。