第9代藩主斉昭の就任とともにはじまる天保の藩政改革は,多方面にわたるが,城下町に対する政策にはみるべきものはあまりない。
天保期は凶作が続き,村方の衰弊は自然に町方にも影響し,城下町も活気がなかった。藤田東湖の日記「庚寅日録」にも祭礼以外の水戸の町は人通りも少く,淋しいとあるほどであった。水道に関しても「清水道御用留」でみるかぎり,小規模な補修をくり返す日々であった。
天保3年(1832)3月,町奉行所から町年寄につぎのような申入れがあった。それは,下町の蔵前の武家町に新規に水道を敷設して貰いたい。ついてはその敷設経路,敷設経費の概算を算出してほしいとのことであった。
水道係の町方役人は鳩首,会談したが,同年5月の口上書では,新町から蔵前あたりは枝水道が多く,水量も少なくなっているので,新規分水は技術上難しいと思われること。また,町方のうちで,水道工事に詳しい者がいないので工事費の見積もりは出来ないと返答している。
この件はそのまま沙汰止みになったが,しかし,水戸の人士に水道工事に明るい者が全くいなかった訳ではない。断片的な記録ではあるが,技術の存在を証明する曲尺手町の石樋埋設,新町の捨井戸工事,吐玉泉・玉竜泉工事などをつぎに紹介しよう。
天保4年(1833)7月,曲尺手町の水道の木樋を石樋につけ替えた。これは町内の人びとの長い間の願いであった。何となれば,清水道を埋設してあるすぐ上に下水道が跨っていて,清水道の木樋の腐朽を早め,大雨でもあると下水が溢れたりして何かと気がかりであったからである。石樋の主要部分は2個の大石を用いた。ひとつは長さ3尺2寸,幅1尺2寸,高さ7寸5分,ひとつは長さ7尺7寸,幅1尺2寸,高さ7寸5分で,内部をU字型に抜いて蓋岩をのせる形である。これに台石が5本,蓋岩が15枚で,手間賃・運賃その他を加えて13両2朱363文の費用であった。
蓋岩には改造記念として,担当町役人の名前を入れた。それは「天保癸巳七月 御町年寄加藤又衛門 佐藤五衛門 左近司長三郎 木村伝六」と「清水道掛 石田与衛門 本七町目庄兵衛 本一町目三郎平 本三町目安次郎」の2枚で,書は水戸藩の御倉奉行秋山茂三郎忠彦,彫ったのは那珂湊村辰ノ口の石工利兵衛である。
天保5年(1834)7月,新町六丁目に新規に井戸を掘った。新町五町目の井戸から木樋をつなぎ,笠原水道の最末端としたが,この井戸の目的は笠原水道の余り水を溜めて,溢れ出た水は細谷を通って那珂川に落とすためのものであった。工事費は5両3分1朱余であった。
天保5年という年代は,水戸の水道史上,記憶すべきもうひとつの事がある。それは水道係の本三町目名主須原屋北沢安次郎が笠原水道に関する詳細な絵図「御町清水道方角図」乾坤を作成した年である。
須原屋安次郎の父伊八は水戸下町紙町の出身である。江戸に出て,新興の書店で,武鑑などを扱う大手の須原屋茂兵衛に奉公し,独立して青黎閣須原屋伊八を名乗った。宇田川榕斎の「舎密開宗」など蘭学ものの出版で著名であった。その子伊八が青黎閣を嗣ぎ,次子孫七は須原屋孫七店をはじめ,三子安次郎は水戸に帰って東壁楼須原屋安次郎を名乗り書店をはじめた。藤田東湖,会沢正志斎ら水戸の碩学に愛され,のちに藩校弘道館御用の商人となる篤実な商人でもあった。
笠原水道について,町奉行所の役人も町方役人も,そして水道係の人びとも,経験と勘で仕事をして来たのであったが,安次郎の仕事ではじめて全容を一目で見ることが出来て,しかも水道の樋管の埋設の深さ,桝等の所在等も掌を指すがごとくであった。
安次郎は「樵夫およばざるの事なれどおこがましきを顧りみず」に記すと,絵図の端に書いたが,笠原水道を総体的に見ようとする町人たちの姿勢に敬服の念を禁じ得ない。
なお,「天保6年9月,清水道新規御引水武士小路之図」という地図が市水道部に保存されている。他に参照すべき文献がないのが残念であるが,この図によると,新町五町目の角から,永井十助・根本松寿ら10軒の武家屋敷の前を,それぞれ1個ずつ溜桝をおいて253間半,それと蓮池町福田与三左衛門屋敷前から小田部長一郎ら11軒の武家屋敷の前を通って254間3尺の2筋を延長し,余水を那珂川に落とす水道を記している。おそらく,この年,新規開さくに成功したものであろう。