天保の藩政改革のうち,社寺改革はおくれて天保13年からはじまる。寺社奉行は排仏家で有名な紐蘭今井金衛門維典であって,神道振興,仏教排撃策を強行した。主眼は寺院整理,農民負担の軽減,神国思想の鼓吹であったが,長年の習慣を大きく変えるものであったから,反発も強く,のちに藩主斉昭失脚の要因となった政策である。
この社寺改革の嵐に,笠原水道の水源を守る笠原不動尊も見舞われることとなった。
天保14年10月不動堂の本尊仏は塩ケ崎村(現常澄村)の長福寺に預けられた。不動堂はとりこわされてその跡地へ,実際には不動堂の敷地より少し上手の山際に,吉田神社の摂社のひとつ水戸神社を移したのである。神官には吉田谷津の修験常光院が任ぜられた。彼は還俗して鈴木滝男と称し,社務を勤仕した。社殿建造費金10両を藩庫から支出すること,建材は近隣の藩有林から伐出してよいこと,笠原水道の水源を守る神であるから,とくに下町居住の士民は尊崇すべきこと等が併せ令達されたのであった。
水戸神社は江戸時代以前から水戸城のある台地はしに祀られていた水戸明神がそれで,水戸城内の浄光寺の池が水戸明神の御手洗と言い伝えられていた。光圀の時代に城内から吉田神社の境内に移されたが,天保に至って笠原水源地に再び移り,水戸士民の生命を加護する役目を持つようになったのも,何かの因縁であろうか。