4 幕末から明治へ

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 文政13年から明治5年までの笠原水道に関する「清水道普請御用留」が10余冊現存する。この記録が継続した時代は幕末維新の激動期で,水戸は藩士ばかりでなく,町人や農民までをまき込んで,保守派(諸生派)と革新派(天狗派)の両派が血で血を洗う争乱の時でもあった。この水道御用留は淡々と,日常的な水道の補修記録を列ねてゆく。

 万延元年は3月に水戸浪士による大老井伊直弼暗殺の桜田門外の変,8月には強烈な個性の持主徳川斉昭の逝去があった。御用留では5月28日から6月7日まで,八町目から十町目まで水道220間の惣払いを行って,水道管の中に半分から3分の2ほど滞留していた泥土を浚い,その人夫賃22貫721文と記している。ついで7月,大雨のため千波湖が増水し,七軒町の懸越銅樋の屋根上1尺まで濁水が来たことを記している。

 文久2年(1862),水道掛として長年尽力した本三町目名主の木村傳兵衛は褒詞を町奉行から与えられている。

  一. 白木綿壱反    本三町目 木村傳兵衛

其方儀 嘉永七寅三 月中清水道懸元取申付候処当年迄九ヶ年間成丈入費不相懸称万端厚心を

 用抽丹誠いたし候段奇特の至に付為御褒美本文之通被下置候者也

文久2年戊12月

これは明るい話題であった。

 元治元年は水戸藩の激派である筑波天狗党が水戸に進攻し,那珂湊の戦いで幕府軍と水戸藩保守派に敗北し,東上して行ったいわゆる子年のおさわぎの年である。清水道御用留では洩水補修8件,山根土用草刈1件,滝元検分1件を記す。

 明治元年は王政復古があって,諸生派は水戸を脱し,会津・北越に新政府と戦って敗走し,戻って水戸弘道館の戦に敗れ,下総八日市場の戦で潰滅した。「清水道御用留」は5月,大風雨があって千波湖が増水し,七軒町の懸越銅樋の屋根上1尺5寸まで濁水があがり,銅樋はもちろん,水道管の手入れ等に56両3分余を費した事を記している。

 水道は水戸下町の士民の欠くべからざるものであり,その保守点検は主義主張を越えたところにある。争乱の中でも水道を守り抜いたものは,町人を結束させたものは何であったろうか。

 年号は明治と変わっても笠原水道は町人の運営のまま継続する。“されど水道は変わらず”とでも言うように。