2 活動

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 水利土功会の活動全般を知ることはできないが,明治18年8月から同24年5月までの諸届78件を記録した2冊の『願書綴』の「水道御用留」を整理するとつぎの表のようになる。水道係から直接市長や警察下市分署長・県知事に「市中街路井戸据置之儀願」「山根及十町目水道修理」「水道岩樋修繕願」などを提出したものが26.9パーセント,その他は住民が個人か町惣代とともに提出した「持井戸修理願」「井戸修理ニ付街路掘割願」「井戸新設願」などである。それらはつぎのようなものがある。




「水戸御用留」の内容一覧

 水利土功会の最大の関心事は,明治18年1月に茨城県庁甲第6号により発令された「街路取締規則」と水量確保であった。

「街路取締規則」に関しては,明治18年8月15日,戸長大森尹直の「前書之通願出候ニ付調印候也」の送付状をつけて,下市水道係3人連名で「市中街路井戸据置之儀願」が茨城県令島惟精につぎのように提出された。

当下市市中之義(儀)ハ,戸数モ稠密従テ人口モ夥多有之為メニ,平素飲用水又ハ火防之用ニ乏ク,非常之困難ヲ究メ候折,旧水戸藩ニ於テ右御世話有之市中宅地斬(軒)下[自4尺/至5尺]道路等ヘ井戸周リ設置有之,以来修膳(繕)ヲ加ヘ供要致シ居候処,本年1月県庁甲第6号ヲ以街路取締規則御発布相成,各自推考スルニハ従来設置之分ハ其儘据置,更ニ出願不仕ルモ冝敷義(儀)ト存シ居シニ,追々聞知熟考スルニ最前ヨリ有之分ト雖モ出願可致候様被存候間,只今ニ至リ遷延遅緩ニ奉存候ヘ共,何卒特別之御詮議ヲ以従前之通御据置方御聞届相成候様仕度,且今往復之支障ニ無之候依テ別紙図面相添,此段連署奉墾願候也

 内容は,1.下市は家屋が集中しており人口密度が高いこと。2.そのため飲用水や消火用水が充分でなかったこと。3.江戸時代は道路を利用して井戸(笠原水道)が設置されていたこと。4 明治18年1月に県より「街路取締規則」が発令されたこと。5.古くからの道路利用については規則に関係ないと思っていたこと。6.よく調査してみると願い出て許可を受ける必要があったこと。7.大変に遅れてしまって申し訳けないが,図面を添えて願い出るので,特別に道路の井戸据置を許可してほしいこととなっている。

 以上の出願を受けた茨城県では,

 警第135号

  書面願之趣聞届候事

   但所管警察分署江其旨届出ヘシ

  明治18年8月21日

      県令島惟精代理

       茨城県大書記官磯貝静蔵[印]

と許可を与えている。

 ところが「街路取締規則」は,3年後の明治21年1月再び通達された。そこで水道係3人は再度「市中街路井戸据置之儀願」を作成したが,水利土功会ではより拡大した体制で出願することが必要となり,写真のように「街路井戸据置儀願」となった。明治18年の理由以外には井戸には堅牢な蓋をつけること,井戸際は清潔にすること,往復(来カ)の支障なきようにすると記載し,明治21年1月7日付で茨城県知事安田定則に,七軒町惣代笹島夘兵衛・本五町目惣代大竹太兵衛・十町目惣代石原金平・字新町(細谷村)惣代瀧田五三郎と水道係の後藤弥平・阿部藤吉・小場善介の7名連記で提出した。


街路井戸据置之儀願(明治21年1月7日)


道路井戸分布図(明治21年1月出願の別紙図面「明治22年度願届け扣(控)」より)

 戸長(服部正義)の添状もあって,同日付で県は「出願趣旨」を理解し「在来ノ儘ノ据置」を「分署(警察下市分署)より申し渡し」た。

 同年1月17日には,水道係3人の名で茨城県知事安田定則に「柵欄据置之儀願」を提出している。水道の導水管は,紺屋町と七軒町間の備前堀を橋構造を作って銅樋で渡していたが,その出入口に柵欄・橋上に屋根を付けていた。それらと本一町目角と本五町目角にあった表井戸(家庭用の内井戸に対して道路際などに設置されていた共同利用井戸のこと)の柵欄の存続を願い出たのである。


七軒町銅樋の図(明治22年度「願届け扣(控)」より)


表井戸の図(明治22年度「願届け扣(控)」より)

 水量確保については,水源の水量だけの問題ではなく,盗水などの問題も数多くあった。

 明治19年6月16日,水道係は,東茨城郡長藤田健にたいして千波吉田両村に厳重な注意と取り締まりを要請した。その願書によると,笠原水源より藤柄町まで笠原・吉田村等の山根約1,900間余に岩樋を埋めて用水を通し,それを甲・乙・丙と区分し,毎年1区間ごとに岩樋の中の泥土や木の根などを清掃して修繕してきた。本年(明治19年)も5月に修繕を加えたので水の流れも良くなっていたが,6月10日ごろより水量が減少し,八・九町目では飲用に事欠くようになってしまった。そこで13日に水源を調べると,岩樋の上蓋(うわぶた)が剝ぎ取られ,溝の中に石が入れてあった。そのため水の流れは弱まり,しかも岩樋の横に5か所ほど穴が開けられ,下の水田に引水されていた。その水田は近年の開墾地で,水利も悪く,これまでも問題があった。この水源は市中の飲用専用のものであるから,人足を雇って修理を加えた。常に見回りしていてもこの始末であるので,このようなことのないようにされたいとある。

 以上のような事件を具体的に理解できる,盗水の現場を発見した記録がある。

 下市十町目に居住していた松崎忠介の「御届書」をもとに,水道係が明治21年7月に東茨城郡長佐藤昌蔵に,つぎのように処分願いを届け出た。

右奉申上候。本月9日夜,下市外3ケ村水道係阿部藤吉ヨリ私ヘ申聞候ニハ,昨8日俄ニ水道渇水ニ相成候ニ付,水路ニ妨害ヲ生シセシモノナラントノ考ヘヨリ,同係小場善介・後藤弥平両人ニテ山根線路ヲ検分致セシニ,果シテ千波村地内ノ岩樋ヲ毀壊シ,耕地ヘ分水シアルヲ見認メ,一時仮修膳(繕)ヲ加ヘタルモ,其所為何人ナルヤ弁シ兼,依テ犯人ヲ探索致シ呉(クレ)トノ事ニ付,翌10日早朝ヨリ山芋堀ノ姿ニ模シ,該場所最寄ノ藪中ヲ緋回シ,彼等ノ動挙ヲ見ルニ,前日抜取タル水ノ為ニ,田面ノ内半分過キハ押秧ノ指支無キ様子ニテ頻ニ植付ケニ従事セリ。其日モ暮ルヽニ及フ迄,別㺳(段)咎ムルノ犯跡モ無之ニ付,又11日モ前日同様ノ姿ニテ探窺セシニ,末タ田面ノ水涸ルヽ模様モ無之,然レトモ連日晴天續キニ付,明日ハ必ス盗水ノ犯人ヲ見認ムルナラト豫想セラルヽニ付,12日ハ勉メテ早朝ヨリ最寄ヲ巡見セシニ,果シテ5.6畝斗,少シク高地ノ処一滴ノ水モナキニ付,今日コソト一層注目スルノ折柄,私縁類ノ者笠原不動ヘ参詣スルノ趣ニテ出逢,其者ト談話シテ私ハ素(元)ノ所ヘ帰リ来リシニ,前刻迄水無キ田面ヘ水流ノ音アルヲ聞付,忽(直)該場処(所)ヘ馳寄,如何ナレハ大切ノ水道ヲ盗ムヤト詰問シ,其姓名ヲ尋ルニ,千波村字富沢坪A(子孫の関係もあり記号にする)ニテ年齢40歳ナリト答ヘ,同人申ニハ少々水道ノ水ヲ貰ヒシニ御見認ニ預リ甚タ申訳無之,幾重ニモ詑入ル旨ニ付,私相答候ニハ拙者ハ水道係ヨリ探索ノ依頼ヲ受タル迄ニテ,此場ノ始末ヲ許否スルノ権理(限カ)ナシ,依テ恐入タル旨実印ヲ捺シタル詫書ヲ指出サハ,又拙者ヨリモ精々水道係ヘ可執成趣,耳言ヲ以テ証據ヲ得ント計リシニ,耕作中ニテ実印モ無之跡ヨリ水道係ヘ罷出,御詫可申趣ニ付,其旨確ク約束シテ相分(あいわかれ)候。

右Aト談判中,壱人ノ婦人水口ヲ見付ラレタルニ付,早ク右ヲ膳(繕)ヒ止メ呉候杯高声ニ呼ハリタルニ付,耕地ヨリ壱人ノ老人上リ来リ水道ノ切口ヲ修膳(繕)セリ,跡ニテ聞ニ此者ハBト申テ,前書婦人ノ為ニハ親父ナル由,前書犯罪人ヲ見認メタルニ付,不取敢水道係ヘ報道(告カ)セシ処,本人来ルヲ可待場合ナラス,詫書ヲ認メ之レヘ調印ヲ受取来レトノ事ニ付,午後1時再ヒ右現場ヘ参リ,其旨Aヘ申聞候処,先刻巨細ノ義ヲ申上ケサリシカ,実ハ昨年迄ハ私小作セシナレトモ,本年,小作本人ハBニシテ,私ハ手伝人ナリ,然レトモ同人ハ老人ナルカ故,該件ノ申訳ケニハ自分カ水道係ヘ可罷出ナレトモ,今日夕刻迄ニテ植付ヲ完結候ニ付,暫時猶豫ヲ与ヘラレ度,今夕必ス謝罪ニ可参旨達ヲ申ニ付,偽言ニモ無之ト存シ,猶堅ク約束シテ水道係ヘ其旨返事ニ及置候次第ニ御座候。

前書松崎忠介ヨリ申上候通リ,事実相違無之,私共ニオイテモAヲ相待居候ヘ共,今日迄参リ不申,己ニ水源年々相細リ心配ノ折柄,右杯ノ妨害ヲ受候テハ,区域内飲用者一同甚タ困難仕候ニ付,右厳重ノ御処分相成度,此段御願旁届申上候也。


御届書(明治22年度「願届け扣(控)」より)

 それは,1,6月8日急に水流が減少したので水道係が山根線路を調べた。2,千波村地内水道の岩樋が破壊され耕地に水が引かれていた。3,6月9日,水道係より松崎忠介が犯人の確認を依頼された。4,6月10日・11日と山芋堀の姿で山中より見張ったが,引き水をする者はなかった。5,6月12日,早朝に確認した水のない田で水が流れる音がした。6,引き水をしている者の姓名は千波村字富沢坪のA(40歳)と判明した。7,詫状を書くように話すと,実印を持参して水道係に出頭すると約束をする。8,水道係に事実を報告すると,本人が出頭するより詫状を受け取ってくるように命じられた。9,午後1時に再度現場でAに詫状の件を話す。10,Aが,実は私は手伝人で,この地の小作人はBである。しかしBは老人であるから,自分が植付を終了しだい謝罪に出頭するといった。

 ところが,7月になっても,松崎忠介の「御届書」にあるAもBも出頭しなかった。そこで水道係は,水源の水量が減少して心配のときに,このような盗水などの妨害を受けては,給水区域内の飲用水を確保することは不可能になると,厳しい処置を求めたのである。

 このような要望書を提出された,水利土功会の管理をしていた東茨城郡長が,どのような処置をしたかは不明である。また,盗水事件がその後なくなったかどうかも記録にはない。