下市の水道の維持についての経費は,全て問題なく支出されていたわけではないらしい。戸長役場の明治19年11月13日受・決第7号の人民総代と署名捺印する中村由兵衛(八町目居住)と石原金平(十町名惣代)によって提出された「水道掃除寄付金之儀願」には,つぎのようにある。
下市外3ケ村飲用水利ニ属スル下市藤柄町ヨリ十軒町ニ至ル水道岩樋,年来修繕無之汚垢堆積水流相滞候,而己ナラス岩樋破損等ニテ降雨ニ際候テハ汚水侵入之為濁水ニ相成,各自衛生上妨害ヲ醸候抔之儀ニ立至リ候哉モ難計甚タ苦慮仕候ニ付,修膳(繕)之儀嚮(さ)キニ出願之際缼岩及粘土等ノ材料ハ水利土功費ヨリ御下ケ渡相成候様請願仕候処,右費額之儀ハ総テ各町寄附金ヲ以支弁致度候間,御聴許相成度此段奉願候也
この内容は,水道の岩樋は最近修理を加えてないため,汚泥が堆積し,水の流れも悪くなっている。しかも岩樋が破損しているため,降雨があると汚水の侵入で濁水となり,衛生上も問題となってきた。そこで水利土功費より修繕の岩や粘土など材料の支給を願い出たが,それらは各町の寄付金によって用意せよと伝えられた。以上のため,水道掃除寄付金を集めることを許されたい。
この願書を,戸長を通して受け取った東茨城郡長佐藤昌蔵は,即日,朱書で「第2課第71号」で「書面願之趣聞届候事」と書入し,許可を与えている。
明治22年4月1日以降の水利土功会は,水戸市長の管理下に入り,運営についても変化がみられた。その一部が,表のように水道係が主体となって見積もりを作成し,市長の許可によって実施する姿勢になって現われる。参考までに,見積もりの基準となった工事人夫賃は1日22銭,24銭5厘と25銭があった。これは明治29年度の水利土功会の予算に,臨時雇に15銭と20銭,人夫に12銭と計上されているのからみると,相当の高賃金である。また,水道工事ではその構造上多量の粘土を使用することは,「小場手扣(控)」でもみられるが,その代金は1車9銭から15銭と大きな幅があった。それは粘土そのものの代価ではなく,現代でも考えられるような運送の距離に関係すると思われる。