1 火災

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 水利土功会が結成されて以来の大問題は,水量と水質の維持であった。そのため多額の経費を投下して,良質で豊かな水量ある水源からの導水路に使用されていた岩樋や木樋の破損などのトラブルを解決してきた。しかし,その修理作業は,竣功以来約270余年も経過した施設の保持には,応急処理的で充分なものではなかった。破損個所より汚水が混入して飲料不適となったり,水が流出して末端に近い九・十町目や新町では水量が不足し使用不可能に近いことが多かった。すなわち汚水からくる保健衛生上の問題と,水量不足からくる防火用水の問題が表面化し,それらに対処する方法をめぐって,明治24年水道係は改選された。

 消防は,江戸時代には上市に上金町組・下金町組・向井町組・泉町組・奈良屋町組そして馬口労町組,下市に七軒町組・本一町目組・本二町目組・本三町目組・本四町目組・本五町目組と合計12組あった。これらは町奉行の下に町年寄が先手頭と称して管理し,町屋の雇人や職人を火消人足として組織していた。先手頭には5人扶持が,火消人足には足止料年1両が下付され,1組30人から40人で活動していた。

 明治27年勅令第59号消防組規則の発布により,新しく水戸市消防組が設立された。水谷藤助を初代の組頭に,300人の組員が上市支部長桧山茂三郎,下市支部長大貫寅吉に指揮される体制となった。明治32年10月12日県令甲第59号により消防組は391人となり,上市には第1号より第7号,下市には第8号より第11号の器具置場が設けられた。明治35年12月8日には,火の見櫓が各号器具置場以外に大字常磐神崎,大字下市台町にも建てられ,火事の早期発見体制を作っている。同月17日県令甲第78号で組員定数は393人に増員され,上市下市2部制となった。

 明治38年12月11日組頭に大貫寅吉が就任し,下市部長は桧山喩義となった。明治40年6月1日県令甲第13号により組織は拡充され,420人の定数で,上市部に246人,下市部に174人が割り当てられた。

 このようにして水戸の町並は,火災に対して警戒し,財産と生命を守ってきた。しかし,実際には上市は井戸によるため,下市は水道があっても水量が不足し,防火には充分でなかった。それは火災の数でなく,つぎのような大火になる状況が示している。

 明治17年5月13日午後8時,下市七軒町笹島吉二郎衛門の風呂場より出火した。この時は強い南風であったため,本町通りから竹隈町・細谷村にまで延焼し,翌14日の午前6時にようやく鎮火したという。焼失戸数1,200余,損害は115万円に達したと伝えられ,「水道アリシモ概シテ水利ノ便ニ乏シク消防ノ活動上遺憾ノ点アリ」(大正時代の『水戸市郷土誌』)とある。

 明治19年12月30日正午ごろ,上市泉町四町目裏と裏信願寺町の狭い路地あたりで出火。火元については,その近くにあった穀屋と古着屋の争いとなり,裁判の結果は証拠不十分で,明確にならなかったという。この日は西南の強い風が吹いており,裏信願寺町の両側を瞬時にして焼き尽くし,横にも広がり,泉町・藤坂町・五軒町に延焼した。その後は住民の逃げ場を奪うように,天王町・備前町・鉄砲町・西町・南町・裡南町・仲町・大町・田見小路・黒羽根町・元白銀町を焼き,県庁の土手で止まった。火は風に乗って北に飛び,那珂川を越えて中河内村(市内中河内町)にも延焼するほどだった。こうして42時間後の1月1日午前6時ごろ,燃える物がなくなって鎮火した。焼失家屋約1,800戸,死者10余名,損害230万円余,大きな建物では川崎銀行水戸支店・国立百四銀行・大隊区司令部・農商務省茨城山林事務所・五軒小学校・上市戸長役場・東茨城郡役所などが焼失している。

 このとき水戸の各消防組は,各町角を拠点に防火に努めたが,「水利ノ便ニ窮シ消防隊トシテ活動ノ余地ナキ状態ナリ」(『水戸市郷土誌』)という。当時,県知事であった安田定則は防火対策も兼ねて市街改造を始めた。地形上用水の確保はできなかったが,向井町広場の中にあった島状家屋を取り払って広小路を作り,新鳥見町から泉町・裡五軒町・表五軒町を通って上金町に出る新道,鷹匠町の袋町より南町・西町に接続する新道,黒羽根町より仲町・大町そして田見小路に至る道路を整備,田見小路より北三ノ丸への空壕を埋めて新道,元白銀町・南三ノ丸・南町の間の空壕を埋めて市街地とするなど大きな改造であった。なお,上市と下市の連絡道路については,千波湖のなかを東西に走る柳堤と,城郭の南崖端を折れ曲がって通る柵町通りがあった。この柵町通りを直線化し,幅を拡げ,西端は東照宮裏参道下を経て駅前に達する新道を作って南町に結びつけ,東端は水門橋に結んでいたのを根積町に付け替えて上市と下市を完全に連結した。