水戸市での汚物の処理は,明治28年に設立された国光社が,上市の塵芥は神崎町・鳥見町・向井町などの堀に埋め,下市方面のは上大野村浜田において焼却したのに始まる。同33年に汚物掃除法が施行され,その仕事は市直営事業とされた。大正10年9月には,水戸市軍人連合分会・水戸市青年会が請負い,搬出と焼却をした。大正13年4月には再び市直営となり,その状況は,『水戸市郷土誌』につぎのように記述されている。
1 各戸塵芥掃除
市内各戸ニテ掃除セル塵芥ハ一定ノ箱ニ収メテ戸外ニ置カシメ,擔当吏員ハ毎日人夫ヲ督シ手車10台馬車3台ヲ率キ市内各町ヲ順次巡回シテ,各戸ノ塵芥ヲ取去リテ,之ヲ左ノ2ケ所ニ運搬セシメ,後之ヲ焼却スルコト。
上市部面焼却場 常磐村江林寺側
下市部面焼却場 下市三軒町
1 公共溝渠浚渫
春秋2回人夫ヲ使役シ,各所ノ溝渠ヲ浚ス。
1 定期民家大掃除
毎年民家ヲシテ春秋2回大掃除ヲ施行セシム,其ノ法ワ畳ヲ揚ケ床板ヲ掃除シス床下ヲ掃除セシム,其他便所流溜等凡テ不潔ヲ一掃セシム。
右大掃除ハ豫メ検査施行期日ヲ公示シ,期日迄ニ行ハシムルコトトス,而シテ検査ノ上,清潔十分ト認ムル家ニハ検査済ノ票ヲ貼付ス,然ラサル家ハ再行ヲ命ス。
清潔法施行程度(注.明治30年内務省令「清潔法」明治39年「市町村清潔法」)
(1)邸地及家屋ノ内外ヲ清潔ニ掃除シ特ニ屋内諸所ノ通風ヲ充分ナラシメ,家具什器類ハ取除キ,寝具・畳其他ノ敷物ハ之ヲ日光ニ曝スコト。
(2)浸潤セル床ハ通気ヲ充分ナラシムルコト
但湿潤甚シキトキハ乾燥セル土砂,若クハ石炭殻ヲ撤布スルコト。
(3)指示セラレタル井戸ハ之ヲ浚渫スルコト。
(4)井戸側,井戸流,台所流,水道栓(下市柵町)等ヲ掃除シ,破損ノ個所アルトキハ修繕ヲ加フルコト。
(5)便所,共溜ヲ掃除シ,破損ノ個所アルトキハ修繕ヲ加フルコト。
(6)宅地内ノ下水,汚水溜ハ之ヲ掃除スルコト。
(7)浸水家屋ハ,畳其他ノ敷物ヲ充分ニ乾燥シ,井水ハ必ス浚渫スルコト。
(8)伝染病アリタル家屋ハ,尤モ厳密ニ掃除ヲ行フコト。
衛生知識が低く,生活環境も悪かった時代のため,栄養失調の状態にある者が多く下痢など水系伝染病に対する抵抗力が弱く,汚染は地域全体に急速に広まった。それはまた体内の水分を減少させ,食物の摂取量を少なくするので栄養失調の度合いを強めた。このようなことから「塵芥掃除」「家屋大掃除」「溝渠浚渫」はどうしても必要なことであったが,それをより効果あるものとして清浄な水の多量確保が基本的条件であった。
一般に水や汚物に関係する病気には,つぎの表のように5つのグループがある。(「国際水道と衛生の10カ年計画」『水道協会雑誌』第561号)
水に関係する水戸での明治初期の伝染病については,『下市回顧録』に具体的記述がある。不充分な洗浄から始まる病気などの「コレラ病騒ぎ」と水で伝播される病気の「チフス大流行」,水に関係ある病原菌媒介生物による病気の「おこり風土病」である。
「コレラ病騒ぎ」は,明治10年九州地方で展開された西南戦争に出兵した兵士が,清国から長崎に伝わっていたコレラに感染し,東京に帰って大流行になったことに始まる。当時の衛生知識や生活の状況からは,防止の方法もなく,感染は時間の問題でもあり,感染すれば死亡するため「コロリ」とも呼ばれて恐れられた。茨城県内では,このとき西南方面の河岸や宿場などに伝染し,死亡者が多かった。このため県当局も人馬の交通を制限し,消毒や衛生講習会を開催して予防と人心の安定を図った。とくに水戸は,県庁所在地で交通の中心でもあったため消毒は厳重に実施された。本四町目にあった薬舗では家伝の毒消しである〝済生丹〟を無料施薬するなどし明治11年3月内務省から表彰を受けるほど有識者たちの努力もあった。このため水戸では東京方面からの伝染による患者は発生しなかった。それが「秋風日ニ来ルノ時ニ際スルヲ以テ病勢俄カニ挫折シ患者漸ク地ヲ払フニ至ル」ころになった10月に,那珂湊港に発生し,そして水戸の下市・上市にと伝わった。しかし,季節に助けられ,コレラ菌の蔓延はなく,すぐに下火となっている。
その後も,明治15年,明治19年と各地でコレラの発生をみるたびに「ニンニク」を布袋に入れ,あるいは消毒用石炭酸を百倍位に薄め「オガクズ」に浸して布の三角袋に入れて,胸や腰に下げると予防になると信じられて流行した。なかには,コロリ悪魔退散に効力のあるという,「鎮西八郎為朝御宿」と版木で刷られたお札も,各地で売られた。
明治28年6月県下にコレラが大発生し,「茨城日報」によると11月10日現在で患者が1,056人,全治者341人,死亡者715人とある。このとき8月15日現在,水戸では患者は10人,死亡が6人と記録されている。
下市では毎年夏になると,どこかの町内で赤痢や腸チフスが発生していたが,明治22年6月にはそれが大流行した。その原因は,水道上流井戸でチフス患者の汚物を洗ったこと。しかもそれが竈神社の祭礼日にあたり,度を越した飲食もあって急速に広まったといわれる。当時は伝染病隔離病舎や入院施設もなかったので自宅療法によったが,看護知識が不足であったこともあって,患者は続出し,住民の不安は高まった。そのことがまた水道の維持・管理に対する不満ともなり改良の必要性をも高めた。
水戸下市には,大正の初期までは「おこり」と呼ばれる風土病があった。それはマラリヤ熱と称されるもので,病原虫がハマダラカのだ液中から人の体内に入り,赤血球内で分裂増殖するときに,発作的発熱をする。かつての下市地区は低湿地で,とくに千波湖の湿地帯が現在の日赤病院近くまで続いており,マラリヤの媒介をする蚊の発生地帯でもあった。
以上の状況があってか,明治23年から同34年まで12年間も下市の人口は約7,000人で増加がなかった。また,上市は100人に対して死者が1.7人であるのに,下市は2.7人と,下市は割合にして1人多く死んでいた。