明治20年代の下市の有識者は,水の汚染や水量不足からくるであろう伝染病の度々の大流行を恐れて「生まれるだけ死ぬと言うことになのるで,将来下市は人口的に滅亡の時が来る」(『下市回顧録』)と心配した。
水は,飲料水や調理,食品製造,洗濯,入浴などに使用される。そのために良質な水質で充分なる水量を確保する必要がある。水戸の場合,この時代は凝灰岩の組み合わせによる導水樋と土管,木そして竹の配水樋が,地下に埋められた暗渠方式であったため,水漏れや汚水の侵入などの問題があった。また,各町には1から2個,本町通りには町角にそれぞれ溜桝があり,自家用の内井戸を持たない住民の共同使用の井戸,通行人や荷車を引く牛馬の飲料,消火用水として利用されていた。これには屋根や釣瓶(つるべ),井戸流しもあって,利用者の便と衛生にも注意がなされていたが,不特定多数が使用するために,全体の井戸に繫がる水道の一部であるとの意識が薄く,水質汚染に拍車をかけていた。
以上の点もあり,明治30年前後の水利土功会時代に水道大改良問題が始まった。明治36年7月,内務省衛生局の技師による水道の水質検査で多量の有害物混入が確認されると,その問題は下市地区全体に拡大していった。
この時代の水源地である笠原水道の水質は,表のように大正年間の検査によっても汚染はなく,水質上の問題はなかった。しかし,各町の内井戸については,表のように水質は439か所中本線のもの1か所,支線のもの43か所が濁っており,約1割に問題があった。それは排水状況が悪いと記録された全体の18.2パーセントを占める80個の井戸,改築の必要があるとされた延167個の井戸(井戸ケ輪78,流し85,樋管4個で延べにすると総井戸数の38.9パーセント)の分布と無関係ではない。それは,本線水質が濁るとされた細谷新町が,水道の末端であることを知れば理解できる。