明治24年に選任された3人の水道係は,水道改良に関する各種の調査をして,それが住民の生活にとって急務であることを知った。そこで世論を喚起し,改良事業問題を一気に解決しようと,宣伝活動を始めている。
上市仲町の私立茨城病院の院長鈴木悳に相談し,水の知識普及のため下市通俗衛生会を結成した。鈴木悳は,本間棗軒に学んだ下館藩侍医であったが,明治9年茨城県権令中山信安に請われて県立茨城病院の創立に参画,県立医学校の建設にも努めた。明治15年に官を退いてからは病院を建て,私立産婆講習所を創設,茨城県地方衛生会委員,茨城医会副会頭,水戸医会会頭などを歴任,茨城の医学界に大きな業績を残し明治36年7月46歳で没している。その弟子の1人に9代目市長となった中崎俊秀がいる。
下市通俗衛生会は,毎月2回程度,各地で衛生講演会を開いた。その弁士は,鈴木悳以外では唐橋在正・掛札祥(薬剤師)・鈴木錬平(医師・東台)・根本良顕(市議・大町)などが務めた。(『下市回顧録』) とくに鈴木錬平は,県立茨城医学校教諭・医員から東台に精得堂医院を開業した医師で,明治40年4月には11代市会議長となり,のちには水戸市医師会長を歴任するなど地域の医療と自治に務めた人物であった。
このような状況を受けて水道の井戸調査が,明治34年1月と同35年11月,同39年10月と実施されている。とくに35年からは,総ての井戸に通し番号の標札が付けられ,効率よく管理しようとしている。番号が付けられた宅地内にある専用の内井戸は,428個あり,町内別には前ページの表のように分布していた。なお,道路内に設置されていた共用の井戸は55個あるが,資料によっては64個ともあり,その分布についても相違があって明確にできない部分がある。「いはらき新聞」の明治35年3月21日から同27日までに,内務省技師野田忠広の水戸で開かれた衛生支会における「水道の話」の演説が,5回に分けて収録されている。
野田技師は,茨城県の衛生支会の創立第1回の総会では,「水」の話をし,同35年の総会で「水道」を中心に演説している。彼は,水を清潔にすることは衛生上と経済上の二大利益になると始める。衛生上は①死亡者数の減少,②罹病者数の減少,③平均寿命を延ばす効果があるといい,当時は日本の平均寿命は38歳と説明している。また,人間が必要とする水の量は,直接に飲料用とする水の15倍から20倍の1日平均2斗程度だといい,これほど多く使用する水であるので,その中に細菌があると病気になることも多くなるという。現在,水道があるのは横浜・秦野・函館・長崎・大阪・広島・神戸・東京の8か所で,その平均死亡者数は,水道敷設以前は1,000人に対し27.50人,以後は20.15人と7.35人も減少したという。これを水戸市に当てはめると,3万5,000人の人口であるから死亡者が年間257人も減少し,他土地の死亡者1人に対する病人数平均34人より計算すると8,738人が病気にならないはずである。死亡者や病人が多発していた横浜を除いて計算しても,年間1,000人当り平均4.89人の死亡数の減少であるから,水戸市の場合は171人の死亡と5,814人の病人を減らすことができる。これを50年で考えると8,550人の死亡と29万700人の病人を減らすことができる。
つづけてつぎのように演説は進んだ。「仮りに此十八日半を病の為めに苦む日数としますれば,水戸市の一ケ年間に助かった病人五千八百十四人の延日数は十万七千五百五十九日となり升(ます),此日数は床に就くべき人が床に就かずに働き得る日数であります」,死亡者の葬儀なども「平均し一人どうしても十円内外は係り」これを水戸市で考えると総計1,710円も助かるといい,「又病人が日々要します診察料とか薬価とかいうものを平均一日十銭と見積りまするも水戸市で一年間に患らはんで済む五千八百十四人の十八日半の診済(察カ)料薬価が一万六千百六十五円,これだけは水戸市が儲かる訳であります」と。
以上のような情勢から,明治35年4月13日水道区会議員や下市の有志者が県の技師関屋忠正を招請し,笠原や払沢の金明水・銀明水など水源地を調査,午後5時から同9時まで竹隈町の千歳楼で水道講話会を開いた。その席で関屋技師より,欧米諸国や東京・横浜の水道布設工事について説明があり,全員一致で同氏に水道改良の設計を依頼することになった。
なお,このころ,水戸市内の明治32年から5年間の,死亡者や伝染病関係の患者数の調査結果が明らかになった。その2つとも区域内住民の方が区域外住民より2倍以上も多かった。これを知った水道利用住民の驚きは大きく,改良工事即時決行の世論が起こった。