条例が施行された時点で,どのような顔触れが区会議員になったか,具体的にはどのような方法で選挙されたか,不明の点が多い。
明治35年3月23日には,水道区会議員の半数改選があった。(「いはらき新聞」明治35年3月20日)これは同条例第6条による任期満了にともなう選挙で,告示によれば下市肴町にあった町会所において,午前10時より午後1時まで挙行された。そのときの退任者は条例による半数で,永井貞次郎(紺屋町)・久保清吉(本二町目)・大貫寅吉・西川慶之介(本六町目)・川崎安次郎(青物町)・大津金兵衛(本一町目)の6人であった。
『水戸市水道誌』によると,「区会議員は時代によって多少その顔触れを異にしたが,久保清吉・笹島清兵衛・大津金兵衛氏が長いこと在職した」とあるので,同35年時も大部分は再選されたと思われる。
水道区会制度は,明治40年に水道大改良事業の決定にともない,新しく行政機関による強力な遂行が必要となって,2月16日の市会で同条例の廃止が議決され解散した。これについては県当局も2月5日,県参事会の意向として廃止を要請していた。
解散寸前の2月9日午後1時,下市肴町の町会所で水道区会が開催された。議題は区会議長及同代理者の互選,水道線路側に電柱を建設することの許可,新しく設置される水戸市水道事務所の件などであった。
電柱建設の許可とは,太田町(常陸太田市)東二町目を本社とした茨城電気株式会社が,那珂川南岸の大杉山(市内三の丸三丁目)に国内では珍らしいサクション瓦斯力機関利用の発電所を建設し,8月10日県内で初めて電気を供給したときの市内架線用電柱についてであった。なお,このとき電灯が取付けられたのは水戸市と隣接常磐村で,その数は325戸,灯数1,000灯だったという。料金は,5燭灯(しょくとう)(電灯の光度の単位)が終夜は80銭,半夜は60銭,10燭灯は終夜が1円10銭,半夜が85銭,16燭灯は終夜が1円40銭,半夜が1円10銭,アーク灯は終夜24円であった。(『茨城電力史』)