明治20年代より問題となった下市の水道大改良は,その事業を遂行するため水道係を改選したり,水道区会を創設するなど組織の整備から始まった。
30年代に入ると,世論を背景に具体的な改良方法の計画に入った。明治36年8月3日に,市役所で午後3時より同10時まで神永清助役と水道常設委員の金子八郎右衛門・吉田弥一郎・亀山佐兵衛が出席して常設委員会が開かれた。(「いはらき新聞」明治36年8月5日)議題は,水道改造の件が中心で,なかなか結論が出ないので7時間に及ぶ大会議になったのである。
10月に,水源地の水量観測が実施され,一昼夜第1水源地(千波笠原新田地内不動山麓)で2万2,118.4立方尺,第2水源地(同所)で3,888.0立方尺,第3水源地(吉田福沢)で2,419.2立方尺と判明し,必要水量は充分であるとの結論であった。
これら基礎調査と平行して改良の基本設計がなされたが,導水管を土管としてそれよりの配水管にだけ鉄管を使用することにしても経費が8万余円に達することが問題となり,一時中止の声もでてきた。このとき水道区会の議長は本二町目の久保清吉で,明治22年から同27年まで市会議員であったことが認められて,36年から40年まで市参事会の会員となった。そのため市長酒泉温忠や下市銀行の頭取であった助役神永清・市会議長の鈴木菊太郎・副議長の金子八郎右衛門を動員して議案を煮詰め,明治36年11月14日の水道区会において総工費6万9,000円余の改築方案を議決した。
参考 水戸市制施行時の市会議員: 鈴木菊太郎・栗田彦六・大高織右衛門・富田彦市・中山直温・西野元聿・村田正孝・小山田勝貞・大津金兵衛・須藤正徳・須藤長右衛門・舘濟・久保清吉・湊仁右衛門・西村弥兵衛・小泉茂兵衛・野上球平・関信之介・大関俊徳・戸村義令・長谷川守行・黒沢平兵衛・大久保長吉・木村伝兵衛・関口 恕・西郷 裕・木村知覚・服部正義・岡野行徳・長谷川尚寛.