水道改修についての県や市の補助金要請運動については,それぞれの立場によって動静が異なり,不明の点が多い。個人的記述は後日になってからの懐古談的なものが主になり,資料としては問題があるため,当時発行されていた「いはらき新聞」をもとに運動の動向をみる。
明治39年には,37年と38年の2年間における運動のブランクを取り戻すため,5人の運動委員を選任し,全ての交渉を一任した。工事費も日露戦争による物価の騰貴で,当初の見積りでは不可能となり,約8万余円が必要と予想され,早期に着工しないとそれでも完成はできないものとみられるようになった。
5人の運動委員は,新しい概算額をもとに半分の額である4万円を県の補助で,1万円は1年に300円で30か年間の市費による補助とし,残る3万円は区民負担というプランを考えた。ただ,水道区会住民が短期に3万円を納入したりできず,市の補助が30か年賦では工事が不可能であるため,工事費は日本勧業銀行より一時借り入れる計画であった。
これら補助金要請が県会で承認されなかったときは,水道改修は少しも延期できない段階にきていることを主張して,内務大臣に直接裁決を求める決心をも固めたという。
県会との交渉,内務大臣に対する請願を有利に展開するため,下市の有志30余名は,政府与党で県会においても実力を誇った立憲政友会に集団で入党した。政友会は明治33年9月伊藤博文の主導下に創立された政党で,地方ブルジョアジーや地主階級を基礎とした保守的体質が強かったが,内外政策においては一貫して積極的に対応していた。その面から考えれば,下市有志が集団して入党したことは,不自然なものでなく,水道問題に起源はあったとしても,それは全国的風潮であった。
こうした決意のもとに実行予算を組むと,原料や人件費の騰貴があって総工費は8万9,842円19銭に達してしまった。水道区会は改めて,市参事会に市費補助金の増額を求めた。1か年300円の決定であったのを500円とし,30か年間の補助で総額1万5,000円であり,明治39年10月28日に申請は可決された。その夕は市会対策として南三ノ丸の環翠亭に,関係者が市会議員の有志を招いて事前説明会を開いた。そのためにか翌29日の市会では,片野文助・武士松之介などより質問はあったが,満場一致で総工事費と市費500円の補助が決定された。
総工事費が,36年案の6万9,000円から39年に2万800円余も増加して8万9,842円19銭となったのは,県当局行政指導にもよる。それを受け入れた水道区会と水戸市会の増額更正をもとに,11月20日の県会では水戸市選出県会議員根本良顕の協力もあって,水戸市下市地区の水道改築事業費の助成補助金として2万9,947円が決定された。
このようにして市や県の補助金支出体制が調ったことから,明治40年4月29日に市長原百之の名で,内務大臣に水道布設願を,内務・大蔵両大臣に起債の許可稟請(りんせい)(申請)を提出した。そして待つこと1年,ようやく翌41年3月31日,県庁を経由して工事施行と起債の許可が指令された。市債については,5万9,895円19銭が5万9,800円で認可されたため,95円19銭についての処理がのちに問題となる。