6 水道改修の反対運動

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 下市水道区会議決による水道改修事業は,水道区民全体の希望によるものではないと,明治39年段階で反対を唱える者があった。(「いはらき新聞」明治39年8月9日)

 明治36年当時の申請書によると,区民の負担は3万4,200円であった。これを区域人口6,563人で計算すると,1人が5円21銭となる。それを30か年賦となると1年に17銭4厘で,当時の1戸平均家族5.5人で計算すると各戸は95銭7厘で,月に約8銭となる。これが,それまでの区会費に加算されて徴収されることになる。このころの単純労働の日当が30銭から50銭であったことからすると,その増加分は日当の約27パーセントから約16パーセントになる。水道区会では,改良工事終了後は給水戸数が2,000戸になると試算し,これから納入額は1戸あたり17円10銭で,年間57銭,月にすると4銭8厘と計算した。これを毎月,30年間も支払うということは大変なことで,この面からも区民の間には反対者があった。

 それ以外に,水道については明治23年2月12日法律第9号として公布された「水道条例」に,「水道ハ市町村其公費ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ布設スルコトヲ得ス(第2条)」とあるが,市当局は破損箇所の修繕や浚渫を督励するだけで,水質の検査など積極的に維持管理をしないことに住民は不満を持っていた。また,水道区会議員の補欠選挙のときには,早期改修断行を主張する一部の者たちだけによって,久保清吉を選出したことも不満となっていた。

 これまでにも何度か改修事業があったが,完全なる成功はなく,今度の改修でも良質の飲料水確保はできそうにもない。しかも鉄管を使用すれば錆や沈でん物が出るが,その排出をどうするかとの疑問を出す者もあった。

 情報通の中には,水戸市が30余万円の経費で全市に水道布設を計画しているらしいが,その時に下市も共同負担があるのではないかと心配した者もいた。また,関係者は給水戸数2,000余戸の計算でいるが,竹隈・東台・白銀町・鍛治町・赤沼・細谷・新町そして十町目などには新しい給水を拒絶する者もあるので,その分は負担が高くなると心配する者もいた。

 以上のように問題点が多い時点で,無造作に重大な大計画を遂行するのは無謀である。場合によっては反対意見書を,知事や内務大臣に提出したいという者もいた。それは「水道条例」の第3条に,「市町村ニ於テ水道ヲ布設セントスルトキハ其目論見書ニ左ノ事項ヲ詳記シ地方長官ヲ経テ内務大臣ノ認可ヲ受クヘシ」をもとに,水道大改修工事の不認可を要請しようとする動きであった。しかし,その実際行動は,市当局や水道区会の気迫に圧倒されてできなかった。

 このような事情を,『下市回顧録』では「下市水道の布設されるまでの道程は,実に紆余曲折,茨の道であった。下市住民の熱望と協力はもとより,下市町務委員会の世論換気の努力や有志達の政治的内面工作等の苦心はなみ大抵のものではなかった」と記述している。


参考 下市町務委員会 市制施行後にできた町代表(人民惣代)である町務委員の下市地区の会合。町用金や旧水戸藩主から下付された三口金という学資金などの下市共有金の貸出し運営を管理し,各種議員や委員の公認候補を詮衡など下市全般に関係する事項を協議した。