市会に設置された水道常設委員は,名誉職であったため,任意遂行のためには日当などの実費が支給されることになっていた。その実費の計算・算定の基準は,活動の性格や内容の特色もあって他の委員会とは異なるものがあり,常に問題になっていた。明治40年2月4日の市参事会でも,前回よりの懸案であった「水道常設委員実費弁償額支給規程」の改正が,正式な議題として取り上げられている。
ところが,明治41年5月21日付「いはらき新聞」に,「正当の請求か」の題のもとに,市民の間に「八釜(やかま)しき(喧しき)問題となるべき形態あり」と解説されたつぎのような内容の記事がある。
水道常設委員の臼井義賢と亀山佐兵衛が,3月上旬に水道起工認可申請の追加説明と認可促進のため上京し,4月30日に帰郷した。2人は,関係の実費弁償額支給規程によって,日当1円に在京中の日数を掛け,旅費を加えて200余円を請求した。ところが2つの点で問題となった。41年度の実費弁償額の予算は120人分120円で,旅費は60円となっており,これらを全て支出してもなお約20円の不足となること。他に,この実費弁償請求の全てに正当性があるかどうかという点であった。
2人の出張は認可の申請であり,その説明が任務であった。ところが,その工事施行及び起債についての内務・大蔵両省の認可は,3月31日付文書で4月5日には市役所に送付されていた。その時点で2人の任務は終了し,在京の必要はなくなった。それがその後1か月間も在京していた分まで,公費での実費弁償(60円)をするのには疑問があるというのである。
これに対して2人は,「市債借入の交渉を銀行に開始する」ために奔走していたと説明した。しかし,上市側の議員のなかには,「起債に付ては市参事会の如き責任あるものに非ざれば交渉成立を告げ得べき道理なく且つ又両氏委任外の要件」で,原市長も「屢々(しばしば)両氏に帰水を促がし又滞京の用件なき旨を」公言していたのであるから,実費弁償支給の必要なしと言う者もいた。なお,下市だけの水道ではなく,水戸市水道として全市民的事業となった時代に,このようなことが「公然として行はるゝは実に沙汰の限り也」とまで表現する者もいた。
以上の世論に対し,明治41年5月23日の「いはらき新聞」紙上で,臼井義賢はつぎのような在京の正当性を訴えている。
小生達は昨年9月中水戸市水道常設委員に当選致候に付,不省(肖カ)乍ら先輩の後に属して本事業の遂行に努力致し,漸く本年に至り出京して本願の許可の運びに至りたりしも,其前程3月28日に於て肝要なる起債の方法に就て,予て約束の勧業銀行より拒絶せられ而して他に借入の方法なきに於ては,本願の許可を得られず,又之が為め時日を経過すれば県補助の期限を経過するの怖れあるを以て借入の方法は何れの法人若しくは団体より為すことを得るか依り,起工願は40年度内の日付を以て認可を与へられんことを切に懇願せり,斯のことく期日切迫の場合に於て提起せし本願の死活に関する問題を解結(決カ)するに当り,権利上前記の如き臨機の行動を執りたるは,又不得止次第にて候,然れども起債額は3月中に許可を得ること能はす尚且つ給水規則変更額の如きは4月中に於て許可の指令に接することを得られざりしが此○○○○先きに就ては是非確実なる目的達成せざれば帰水すること能はざる具合となり,日夜奔走の結果漸く其方法を得て,4月30日帰県することを得たる次第に御座候。(○○○は不明文字)
すなわち,勧業銀行の起債引き受けが不可能になったため,役所よりの工事の本許可が40年度日付にならない恐れがでてきた。そのため起債の引き受け先を求めて運動し,在京していたと説明している。
この弁明によって,市長と市参事会は予算の款(項目)内流用で請求額を支出することにした。これを知った新聞は25日に「水道委員万歳」と題し,「口善悪(さが)なき輩(わらべ)は囁(ささや)いて曰く競馬紳士に日当を支払ふは 水戸市破天荒の椿(珍カ)事なりと 何の事やら分ってゐ(い)るやうで分らぬ所が面白いのなるべし」とやじっている。しかし,それ以上の説明はなく内容は不明である。