水源における水量については,明治36年10月と同41年12月の調査結果があるので,整理するとつぎのようになる。
その説明として,「水源涸水ノ期ニ於テ観測(調査)セル結果ニシテ,且ツ他ニ漏水ノ形跡モ存スルニヨリ,相当設備ヲ施行スルトキハ,多少ノ増水ヲ露(現)スヘシ。本水源地ハ寛文年間ヨリ爾来200有余年内今日ニ至ルマテ使用シ来リタルモノニシテ,其水量ニハ甚敷(はなはだしき)変化ナク,特ニ降雨ニ際シ汚濁ヲ来スカ如キ虞(おそれ)ナシ」(「水戸市水道改良工事設計書」)としている。1年中でもっとも湧水量が少ない時期で1昼夜2万8,400立方尺あった。そのころ1人1日当りの最大の利用水量は,3立方尺とされていた。明治41年12月末の給水予定地区人口は7,377人で,予想人口は8,000人であるから,1人1日に3.55立方尺供給でき,3立方尺なら9,467人にも供給できる計算となる。すなわち,完全な配水体系が確保できれば,水量不足の心配はないと表現したいようにみえる説明がなされている。
水質についても,第1水源と第2水源については茨城県警察部衛生課,第3水源については下市本四町目薬剤師金子八郎右衛門による水質分析結果がある。
2つの水質分析は,同一項目ではなく,単純に比較はできないが,当時においてはともに飲料水として使用を中止させられるようなものは含んでいなかった。このような水量と水質調査をもとに,計画は進められた。
工事の方法については,つぎのようである。第1水源は,「池井平水位ハ,水準基面上48尺5寸トシ,長34尺7寸底幅3尺深サ6尺5寸,両側壁法1分前面ヨリ矢板工ヲ施シ,底周壁共全体「コンクリート」ヲ以テ築造シ,其外側ニハ粘土ヲ施シ防水ノ用ニ供シ,壁ノ山腹ニ接シタル部分ニハ数ケ所ノ流入孔ヲ設ケ,其外側ニハ底部粗石張リ,其上ニ玉砂利ヲ塡充シ,湧水ノ自由ニ井内ニ流入スルト同時ニ濾過ノ作用ヲナサシム」とある。その井の内は導水管の位置よりさらに1尺8寸も深くし,井内に土砂が沈でんするようにした。導水管の位置は井の北端で,その大きさは直径10吋(約25.4センチ)の鉄管であった。管口には制水扉と鉄製の網があって,ちりやごみその他の浮遊物が流入しないように防ぐ装置が設けられる。また,井内の水量が常に一定水量を維持するように余水吐が作られ,制水弁をつけた掃除用の管も設置される。
第2水源地は第1水源地より南にあり,その池井の平水位は水準基面上48尺7寸3分3厘とされる。形は,「六角形井ニシテ巾3尺5寸深サ7尺2寸5分」で,コンクリート製である。その他の工法は第1水源地と同じ「前面ニハ漏水ヲ防グ目的ヲ以テ厚サ1尺5寸ノ粘土壁ヲ築造シ,山腹ニ接セル壁ノ下部ニハ数個所ノ流入孔ヲ設ケ外面ニハ張石玉砂利塡充」であり,木製の上覆や弁室や制水弁を有する掃除管もあった。なお,井内に充満した水は,井の北側隅より直径5寸の土管で第1水源地に送水される。
第3水源地井の平水位は水準基面上48尺5寸3分3厘で,第2水源と同じ六角形のコンクリート製である。大きさは幅3尺深さ4尺5寸で,前面は厚さ1尺の粘土壁とし,山腹に接する壁の下部に数か所の流入孔を設けてある。外面は張石玉砂利を塡充し,直径5寸の土管によって導水幹線に送水された。井の上面には木製上覆や余水吐と掃除管が付けられ,送水管や掃除管には弁室を設けて制水弁が設置される。