水道改良後の下市水道の料金については,明治40年に改修工事費の市債が年7分の利率であることから算出されて,つぎの表のように決定された。水量を限定せず使用人数で料金計算をする放任栓と,使用水量で料金を算出する計量栓に大別。使用人数は,1栓(1じゃ口)につき当時の家族の平均であった5人を基準とする。計量栓は,100石(18立方メートル)が基準量であった。
また,それぞれに,家族だけで使用する専用栓と地区で共同井戸的に使用する共用栓の別があった。放任共用栓には,私設と公設があり,同じ1栓5人まででも20銭と6銭と,大きな相違があった。
料金の経営上の基本単位は,放任専用栓の1栓5人までの40銭で,私設共用栓や公設共用栓は社会政策的面から使用料が決定されている。それは1栓で1人増加するときの使用料が,専用では4銭であるのに,私設共用では半分の2銭,公設共用では4分の1の1銭であったことにも現れている。
当時の平均的職人の日当は,石工90銭,左官60銭,大工70銭,煉瓦工80銭,人夫50銭であるが,「鋳鉄柱水口直径4分ノ3」という共用栓の工事費が37円(「前設計」)ということからすると,家庭用給水栓を付けることその水道使用料を支払うことはなかなかできなかった。
しかし,明治34年4月に竣功・通水した神戸市の水道使用料が,施設に相違があるとは言え,一般家庭放任給水が5人までで1か月55銭,1人増すごとに9銭というのに比較すると,水戸の料金は大変に安いものであった。
明治41年7月,市債の増額と利子の歩合について,市当局と銀行側の了解事項に食い違いがみつかった。話し合いの結果,利率は第1回1万円の分,年1割。第2回以下分は年8分と決定した。このため償還金額が変化し,自動的に給水料金も改定することになった。7月20日市参事会で「水道給水規則中改正」として議決し,同月24日に市会でも議決し,県当局に許可を申請した。県参事会は,27日に他の案件とともに審議し,28日に可決している。その新料金は表に示す通りであるが,40年のものと同じに通水以前のものであって,実施されなかった幻の存在となった。
ところが,明治42年3月28日,市会で新たに1万9,857円81銭の工事費増額が議決された。その分の市債償還に充当するため,同年4月8日の市会で,つぎのような料金とする「水道給水規則中改正」が可決されている。これは下市水道最初の水道使用料で,近代経営による始めての給水料金表であった。もっとも,この料金体系の発想には,40年時の幻になった社会政策的配慮が温存され,水戸の給水思想の特色ともなる。そのため,大正元年8月現在で,水道利用総戸数3,081戸の11.4パーセントが放任専用栓といわれる自家引用であるのに対し,放任私設共用栓利用54.3パーセント,公設共用栓利用が34.3パーセントの状況で,水道経営上は問題も多かったと思われるが,水戸の都市生活にはたした役割は大きなものがある。