タバコの製造は,明治の中期までは民営でなされ,水戸は水府煙草と称して高い品質を誇っていた。なかでも,曲尺手町の広瀬惣八,本三町目の中村幸兵衛・藤田元貞,東台の黒沢寅之介や「雲井」の製品名で世に知られた水門町の水戸煙草製造株式会社などが主なものであった。
政府は,明治30年4月に葉煙草専売所を全国に61か所設置し,茨城県内では水戸・太田・大宮に開設させた。以後,民間の製造業者の営業権を買収し,製造を委託するようになった。37年12月には煙草製造の直営のため,水戸にも水戸葉煙草製造所が設置され,水門町に収納場兼工場が作られた。大正3年6月には,下市の有志による敷地提供などの誘致運動があって,一ノ町と二ノ町の間に専売局水戸煙草製造所として新しい工場を建てた。40年当時,上記製造所敷地と決定した町は,下市水道布設区域の外側にあった。この製造所が開設されると,その従業者3,000人程度が水戸の人口に加わるため,計画中の下市水道給水能力に不安があると心配する意見がでて,有志の誘致運動を批判する人びともあった。これに対して誘致賛成派は,水戸の発展のため,人口増加策として兵営の設置とともに重要な施設であり,多少設計を変更して配水管を同製造所まで延長する必要があると主張した。臨時水道委員会では,7,000人給水計画ではあるが,その能力は1万2,000人までは応ずることができると表明した。
森県知事は,同製造所の建築着手が近いことから,水戸市長に対し下市水道配水管布設時には,同地区を給水区域として配水線路の延長を希望する趣旨を内示した。
これによって市参事会は,9月27日に,知事の希望という指導を受け入れ給水区域の変更を承認した。9月30日には市会が開かれ,根積町より東柵町・荒神町に通じる250間の配水管の延長3,581円84銭の工事費を可決している。
実際は,設計を改めるための時間の不足と,布設工事までに煙草製造所の完成が考えられなかったこと,幹線配水管の起工認可の問題などもあって,同延長管は支線として後日の課題とされた。