明治44年になると,下市水道の給水量がしばしば減じ断水などもあって,水道区民は大変に困った。朝夕の炊事用水にも不足し,「各種営業者中には其困難名状すべからざる」状態となり,総代や町務委員などが市役所に押寄せ,水道の維持管理についての責任を追求した。なかには激怒して,「当局者の生首を得ずんば承知出来ず」と,詰め寄る者もいたという。(「いはらき新聞」明治44年4月2日)
4月1日,下市町務委員の代表者数名が,原百之市長に面会して,断水や減水の原因と対策について質問した。その時,早急に給水の安定供給ができない場合は,旧水道(笠原水道)の復活を要望すると町務委員会の決議による申請書を提出している。
旧水道の復活問題は,それが消防組の管理下で警備用(防火用水)や雑用に限定利用で存続しており,簡単に飲用に転用できると考えられた状況にあったことに起因する。水道委員の杉田恭助も,これに賛意を示した。市参事会は,新水道を布設した面目と保健衛生上の問題もあって,旧水道の飲用利用は承認できないが,断水問題を解決する手段に警備用としてなら許可しようという妥協案をもっていた。
断水や減水についての市当局の説明は,水源地の湧水量は充分であるが,導配水管の途中に問題が生じて漏水するとある。しかし,その故障の個所については発見できず,修理ができなかった。故障個所の1つと見られたクラクラ坂の湧水を土管によって補修中の4月3日の夜,豪雨があって雨水が配水管に混入し飲用水が濁ってしまった。配水不足に加えて水の汚れも問題になり,水道課では,旧水道の水源であった銀明水の湧水をポンプで配水池に送る計画を立て,水量と水質を確保しようとした。
これに対して銀明水からの送水の困難性,水源の水量に不足はないことを主張し,導配水管の根本的改修を考える人びともいた。ところが,旧水道時代から,水道工事に従事してこれを熟知していた工夫の数は多かったが,それを指揮し,リードできる水道技術の専門家が市役所にいなかった。そのため断水原因は理解できても,その個所の発見や修理については明確にできなかった。水道技術の不足のため,充分な水量を完全利用できず,水道利用者を安心させることがなかったことにより,断水問題はエスカレートしていった。