導水管の漏水個所を発見するため,水圧を加えて実験的に故障個所を調査する試験が7月に始まった。
7月6日からの3日間藤崎技師が長谷川壮介助役・市参事会員・市会議員や下市の有志などを立会とし,笠原水源地で,第1サイホンと第2サイホン間159間の土管(470本)に第3貯水池より逆に水を流す導水試験をした。初めから配管されている地面のいたる所より多量の漏水がみられ,ここは全面的に改修する必要が確認された。つぎに貯水池と第1サイホン間の38間の鉄管についての試験では,バルブには異状がなかったが,1分30秒に1斗の割合いでの漏水があった。これは第1水源池と第1サイホン間の逆川の流底に布設された長さ2間の鋳鉄管19本によりなり,下市水道工事中の最大の難工事で,もっとも注意深く作業された所でもあった。そこから漏水があったことに,関係者は改めて水道工事の難しさを知らされた。
水量については,7月8日,1秒間における湧水量を調べると,第1水源池・第2水源池で0.34,第3水源池で0.06,第4水源池で0.04,第5水源池で0.02となり合計0.46立方尺あった。設計湧出量は0.3立方尺で,0.16立方尺は剰余水量であった。24時間で3万9,744立方尺の湧水量であり,設計給水量1人1日3立方尺(4斗5升)で計算すると1万3,248人に給水できる。下市水道計画8,000人分2万4,000立方尺に対して,5,248人分の1万5,744立方尺の余裕,明治44年時点での給水区民8,500人に対してもまだ4,748人の余裕があるはずだった。
7月17日の市会で,水圧試験により改めた水道修繕工事設計変更を可決し,秦野水道の田中市蔵を工夫長として改修工事をすることになった。なお,このときの市会では,払い下げを申請していた旧城堀敷の内,柵町より北三ノ丸に通じる大手橋下一帯の濠地の許可内示があったことで,明治45年度に里道を開設する案件についても可決している。ここは水戸駅から水府橋に出る旧国道6号線で,かっては大手町と命名され,現在は道路の西側が三の丸一丁目,東側が同二丁目となっている所である。
改修工事は,7月20日に太田水道課長と田中市蔵,関係者が現場で施行順序などの最後打合せをし,60日間の予定で開始され12月には終了している。
工事や竣功についての書類はなく不明であるが,大正15年の『水戸市勢要覧』に「工費金壱万二千八百七十一円余を投じて導水管を改修し」とあるのは,このことであろう。
改修工事の費用節減については,市会の要請もあって原市長は努力を重ねた。5月17日の市参事会と藤崎技師との協議の中で,最大の経費は導水管の掘削と埋戻しの人夫代で,この面が節減できれば改修工費が少額ですむと話題になった。原市長は,経費の面だけではなく,安心できる作業体制確保ということもあって,工兵大隊に協力を要請した。しかし,同隊は那須野原で演習出張中であり,早急なる作業体制ができないことが判明したため,5月の半ばには土工関係は請負制にし,その他の工事は直営でと決定した。田中市蔵は,土工関係の請負人であった。